ヒューマニズムから人間性尊重主義へ


 ヒューマニズムは良くできた理論です。しかし、ごう慢な理論です。
 
人間の存在を世界の中心におき、人間の存在はこの世において最も価値の高いものであると自ら高らかに謳っているからです。
 
自らの尊さを主張しながら、その理由を「人間がそう考えたから」だと言うのは、僕にはどう考えてもごう慢な理論としか思えません

 しかし、
人が互いを大切にするという社会の実現のために、今はヒューマニズムの思想に頼りっきりになっているのが現状です。
 ヒューマニズムに頼っているのは、それがすばらしいものであるからではありません。現時点では
ヒューマニズムに頼らないと人間の命を互いに大切にしあうことの理由を見いだせず、社会のモラルの基礎が築けないからです。

 そのために、ごう慢であろうが、フィクションの上にしか成り立っていないものであろうが、「人の命はそれだけで価値のあるものだ」と主張し、なぜかと質問されると真理を疑う愚か者として非難するしかないのです。
 今はほとんどの人ががヒューマニズムが正しいものだと信じています。
多くの人が正しいものだと信じているがゆえに、常識として通用しています
 ヒューマニズムへの批判をすると、「バカなことを言うな。命の尊さの基礎が崩れてしまうじゃないか。」という非難が聞こえてきそうです。

 しかし、ヒューマニズムはごう慢であり、
世界を人間の都合でねじ曲げて見ている思想です。僕はヒューマニズムの中にいびつなものを感じています。そしていびつな部分は修正して、納得できるものに作り替えなければならないと思います。

 ヒューマニズムにおいては、
この世には高い価値を持つものが存在し、人間はまさにその高い価値を持つ存在であるということが大前提となっています。その前提が疑われると、理論が根底から成り立ちません。

 そのために、フィクションを真理として押し通すことが絶対に必要となってしまうのです。
 そして、「なぜ、人の命が特別に尊いと人間は主張するのか」という問いは愚かな愚問と見なし、人の存在の特別さを「
疑うまでもない真理」とするのです。

 しかし、人が特別な存在だというフィクションを真理として押し通さないと成り立たないような理屈は、
そこまでのものでしかないということを意味しています。

 生命が38億年かけて歩んできた道筋の上に偶然人間が誕生したのなら、それまで地球上に現れた生命や、人間以外に現在も存在する生命と比べて、人が特別な価値を持つ存在であると主張することは難しいものとなります。

 人は、知性を持つ生命として誕生しましたが、おそらく人間の知性はそこまで絶対的に正しいものではありません。
人間に自身の枠を超えて生命の価値を判断することなどできません
 
権利も価値も善悪も、人間が知性を発達させた結果として持つに至った人間独自の概念です。それは人間の特別さを裏付けるものではなく、鳥が空を飛び、ネコが暗闇で夜目が効くのと同じように、人が生まれ持っている、種としての特徴に過ぎません。

 
人間の価値観は人間の枠を超えて宇宙の中で普遍的に通用させられるようなものではありません
 
人間が自らの尊さを自分達の勝手な理屈で主張するのは、どう考えてもごう慢であり、欺瞞です

 人間が、自らの高い価値を根拠として、「人の命の大切さ」を説いたとしても、
フィクションの上にのみ成り立つ「大切さ」など、まがい物でしかありません

 自然科学の発達の中で、人間が特別であるという神話は徐々に崩れてきています。かつては、「人の命の持つ高い価値」を盲目的に主張していればそれで充分でした。しかし、生活環境がパンク寸前になってきた段階では、
無邪気に「人の存在の特別さ」を信じ続け、主張し続けることは人類の未来にとって害悪以外の何ものでもありません

 命の大切さを突き詰めて考え、今の常識の次の段階に進むためには、
「なぜ命は大切なのか」という問い方ではなく、「なぜ人は、命を大切と考えるのか」という問い方として、もう一度あらためて根本から考え直さなければなりません

 人の命の大切さが揺らいでいる原因のひとつには「
命をどう捉えればいいのかが分からなくなっている」という事があると思います。
 「命の大切さ」を説く大人も、
「なぜ命は大切なのか」という素朴な疑問に対して、真っ正面からは答えていません

 なぜ答えないかと言えば、答えが分からないからです。そして、なぜ答えが分からないかと言えば、
けっして答えのでない問い方で「命の大切さ」を考えようとしているからです。だから、問い方を変える必要があるのです。

 フィクションの上にのみ成り立つような“真理”を批判が許されないものとして主張するのは、思考を回避していることに他なりません。
 根本の部分から逃げずに、真っ正面から「人はなぜ命を大切なものと考えるのか」という問いに立ち向かうことが必要です。

 「人の命が大切なのは当たり前じゃないか」というのが今の常識です。人の命が特別に価値が高いものでないといけないという意識が多くの人の頭の中にあります。
 しかし、大切なのは
人が互いに大切にしあいながら生きていける社会をつくることであって、特別意識を持って人間の自尊心を埋めることは大切なことなどではありません

 人は自分達が特別でないとお互いを大切にしあうことはできないのでしょうか?
 そうではないと思います。人の命が特別なものでなかったとしても、人は互いに大切にしあうことはできると思います。
 「人はなぜ命を大切なものと考えるか」という事への僕の現時点でのひとつの答えは、
人が「生への願望」を持っているからということです。

 全ての生命は生きている限り、「生」を目指しています。それは人間であれ、植物であれ変わりはありません。ただ、人間は知性と言葉によって生きていたいという思いを言葉によって表すことができるだけです。
 
精一杯生きていたいという思い、愛する人に生きて欲しいという切ないほどの願い、それが「生への願望」です。

 人間社会の役目は、人類全体が生活環境の中を生き抜いていくためのものであると同時に、
社会に属する個々の人間が「精一杯生きていたい」という願いを叶えるための場所であるべきだと思います。

 かつて人の命に価値の差があった時代には、精一杯生きようとしても生きることのできない人たちが大勢いました。
そういう人たちが精一杯生きたい、愛する人に生きて欲しいという「生への願望」を持ち続けたからこそ、その願いを叶えるために、人は命の尊さ生きる権利ヒューマニズムといった概念を創り出したのです。

 人の命の価値の高さを知っていたから、人は生きる権利を主張したのではありません。
生きていたいと願ったからこそ、生きる権利という概念を創造したのです。そこを間違えてはいけません。

 生命の歴史の中で、今まで数多の種が生まれ、消えていっています。その
命のリレーの延長上に人類は生まれました
 
数多く地球上に誕生した生命の中で、人間のみが特別に生きる権利を保有しているなどと考えるのは大間違いです。
 
「人の命は地球よりも重い」などとおごったことを考えるのも大間違いです。「人の命を大切にしたい」という言葉の中にはごう慢さはありませんが、「人の命は大切だ」という言葉の中にはすでにごう慢さが入り込んできています。

 人は生きる権利などだれから与えてもらったわけではありません。
生きていたいと願うから、生きる権利を自ら創り出したのです。
 人間が世界の中でより良い「生」を求めているというだけのことを、「世界は人間に「生」を与えるために存在している」ということにしてしまいました。それは、
レトリックによる言葉のすり替えであり、人類自身に対しての最も大きな欺瞞です。

 
人が生きる権利を主張するのは、生への願望を持っているからです。
 
生きていたいと願うから、愛する人に生きて欲しいと願うからこそ、その願いを叶えるために、互いの生を、命を、尊重しあうのです。

 人が持つべきは、高い価値を持つものを大切にしないといけないという義務からの「命の大切さ」などではありません。
「人の命は他の生命と比べて特別に高い価値を持つ存在である」という考えは、人類の今後の安定した存続のための害悪となり得たとしても、人が互いに尊重しあいながら生きていくための絶対条件ではありません

 何より大切なのは、
お互いの生への願望を大切に尊重しあうという事ですそれは義務ではなく、願望として持つ「命の大切さ」です。相手を助けるとき、相手に託されるのは「がんばって生きて欲しい」という生への願いです。

 
そして、相手の持つ「生への願望」を大切にすることは、やさしさや思いやりという自分自身の人間性を大切にすることです。
 
相手を大切にするということは、自分の持つ人間性を大切にすることであり自分自身のためのものなのです。

 ヒューマニズムにおいては、困っている人を助けることは、価値ある人間を助ける尊い行為ですが、困っている犬を助けることはヒューマニズムでもなんでもありません。
 ヒューマニズムにおいては命を大切にする前に、
価値ある命かそうでもない命かを判別するところから始まります。その判断の根拠となるのは人間の理性ですが、それは人間側の理屈でしかありません。

 ヒューマニズムでは、
命を命そのものとして大切に扱うことはできません大切に扱われるべきかどうかは、あくまでもその存在に対して人間が自分の都合でつけた価値づけをもとにして決定されます
 人間以外の命を大切にするのは、その種が“価値あるもの”と見なされた場合のみです。
 ヒューマニズムは人間を大切にし、人間を中心に考える思想です。
人間以外の命は人間ほどの価値を持たないものと見なされます。犬を助けたとしてもそれはヒューマニズムによるものではないのです。

 それに対して、
自分の持っているやさしさや思いやりといった人間性の表れとして相手を大切にし、生きて欲しいという生への願望に基づくものとして相手を助けるならば、相手が人であろうが犬であろうが関係ありません

 価値あるものを尊重するヒューマニズムは、人間による価値づけを前提とする点において、欺瞞とごう慢さに満ちたものですが、自分の人間性と互いの生への願望を尊重する考え方ならば、
価値があるかどうかは問題とならず、欺瞞もごう慢さもみじんもありません

 ただ、気をつけるべきなのは、相手のためになるように考えて相手のために行動することにはごう慢さはありませんが、
「相手のためにしている」と自らの口で言うことはごう慢だということです。
 ややこしいですが、「相手のためになりたい」ということはごう慢ではなく、「相手のためにしている」ということはごう慢です。相手のためにしようと考えることはできても、
相手のためになっているかどうかは自分が判断することではありません

 
相手を大切にするのは、やさしさや思いやりといった自分自身の中にある人間性を大切にするからです。相手のためになるようにと思って行動するとしても、それは自分自身を大切にするためと言われるべきです。
 
人間性尊重主義において大切にされる人間性とは、自分自身の人間性です。

 また、相手を大切にするのは
「相手を大切にしたい」と思うからです。大切にしたいと思うことを理由に大切にするのなら、矛盾やごう慢さ、欺瞞はみじんもありません。
 命の大切さは、盲目的に義務として受け入れないといけないものではありません。
大切だと感じ、考えることによって自分が主体として判断し行動するものです。

 
人間を中心に考える考え方ヒューマニズムです。
 それに対して、人間性を大切にする考え方として
ヒューマニティズムと言いたいところではありますが、ヒューマニティズムという言葉はどうやら人間性に絶対の信頼を寄せる思想として考えられているようです。
 僕はやさしさや思いやりといった人間性は大切にすべきとは思いますが、
ものごとの全てを判断する絶対の基準となるようなものでもないと思います

 
人間性は人間が持つ、種としての特徴です。
 僕が考えるのは、人間性を絶対の基準と見なすのではなく、
人の生き様として、自分達の持つやさしさや思いやりといった人間らしい部分を大切にしながら生きていくという「心の姿勢」にしようというものです。
 人間性を
人の特別さを根拠づけるものとしてではなく、生への願望を互いに大切にしあいながら、より良い社会を形成していくための指針として考えるものです。

 だから、ヒューマニズムでも、ヒューマニティズムでもなく、
人間性尊重主義と仮に呼んでいます。生への願望尊重主義と呼ぶこともできるでしょうが、ややこしすぎるので今思案中です。

 近代ヒューマニズムは欺瞞に満ちた理論です。
 
理不尽な差別や搾取を無くし、社会に属する全ての人が最低限度の幸せを手に入れるという目的のためには役に立ちますが、前提となる根本の部分に間違いがあります
 間違っている部分は修正し、財産として引き継げるような考え方になおしてから後世の人たちに引き渡すべきです。


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