今回はかなり今の常識とぶつかるコラムです。違和感を感じる人も少なからずいると思います。なぜ違和感を感じるかと言えば、それは書き手が次の段階の常識を語ろうとしているのに対して、読み手は今の常識で考えようとしているからです。
 他のコラムとあわせてご覧下さい。

フィクションをフィクションとして認めた上で


 人はその知性により価値観を自ら創り出し、それを判断と行動の指針とする動物です。人は価値観を創り出し、それが理解でき、受け入れやすいものであるときには、多数の人がそれを正しいものだと考え“常識”として見なします。

 何が常識とされ、何が非常識とされるかは、時代により地域により異なります。生活環境の変化に対して、今までの価値観で考えることが難しくなってくると、人間は新しいものの考え方を作りだし、より適応して生活できるように自らの価値観を作り替えていきます。
 そうした積み重ねの上に、今の価値観は成り立っています。

 今、常識とされている考え方も、その前の段階の常識が通用していた時代には誰も想像すらしていないものでした。そして新しい考え方が新しい常識となると、古い考え方は忘れられていきます。
 常識は、その生活環境の中で人間がより確実に生存し存続するために有用であるがために成り立つものです。それは決して真理ではなく、
現段階での考え方の主流と言った方がふさわしいと思います。
 時代が変化し、考え方を変える必要が出てきたなら、変化に適応できるように少しずつ変化させていかなければなりません。

 ここでの主題は、「命について」というテーマで書いているコラムの核心部分であり、かつ今まで僕が書かずにいた部分です。ここから書き始めると必ず誤解され、とんでもない奴だと見なされて終わってしまうため、今まで書きませんでした。
 よく考えずに読むと多分理解が難しいと思うので、気をつけて読んでください。

 人間は
ものごとに価値づけをしようとする動物です。その価値づけは命に対しても行われ、その時代の常識によって、命は尊いものであるといわれたり、尊くないと言われたりと変化します。
 現代では、命は尊いものであるという考え方が常識となっています。しかし、人の間に身分の差があった時代には、命の価値には差があると本気で信じられていました。それは支配者側が一方的に信じていたのではなく、虐げられていた側の人間もほとんどがそう信じていたものだと思います。自らを尊いと考える人間も、卑しいと考える人間も、“常識的”な人は疑うことなくその考えが正しいと考えていたと思います。

 では、なぜそう信じていたのかを考えると、それは「
そう教えられたから」というひと言に集約されると思います。その時代においては正しく真理であると考えられていた常識を教えられ、かつ疑うことを禁じられたために、それが正しいと信じるようになったのです。

 今、僕達はかつての人たちとは異なる価値観を持っています。かつての「人の間には命の価値に差があってしかるべきだ」という考え方から、「人の命は全て高い価値がある」という価値観に移り変わってきています。
 僕達はかつての考え方を見て、「
昔の人たちはなんて変な考えをしていたんだろう」と思います。そして、僕達は自分達が常識と考えているものを正しい考え方だと信じています

 ではなぜそう信じているのか、考えてみてください。

 その答えは、今の僕達が“おかしな”考えだと思っている人たちが、その考えを持つに至った理由と同じです。
 それは「
そう教えられたから」です。

 僕達は、自分達が正しいと考えている価値観を子供達に伝えようとし、その価値観を正しいものであると考えるようにし向けようとします。そして、その考えを持たない人たちを見ると、「こいつはおかしいんじゃないか」と心配し、首をひねります。

 
教える側は、自分達の考えが正しいと信じているために、教えている自分達が“おかしな”考え方をしていないかどうかは考えませんそれを受け入れない方の人間を“おかしな”人間だと見なします
 “常識的”な人から見ると、自分達の信じている常識を信じていない人間は、いかにも“非常識”な人間に見えるからです。

 しかし、「そう教えられたから」正しいと信じている、ということを逆に言えば、
違う考え方を“正しい考え方”として教えられていたとしたら、その人は違う考え方を“正しいもの”として信じるようになっていたのです。
 仮に、命を高い価値を持つものとして信じている人が、子どもの頃に「命の価値は身分によって差がある」という考えを“正しい考え方”として教えられていたとしたら、その人は成長して親になると、自分の子供に対して、疑うことなく「いいかい、人の命には差があるんだ」と教えるようになっていたであろう、ということです。

 
人が考えるものは、人の創り出した価値観に過ぎませんそれは真理ではなく、ものごとに対する考え方のひとつです

 
命が尊いということも、尊くないと言うことも、実は根っこは同じです
 
絶対的な真理というものがこの世にはあり、人間はそれを語ることができると考えていることを意味しているからです。
 僕には命が絶対的な価値を有しているものであるのか、そうでないのかは分かりません。
人の知性には限界があり、命というものの存在は人の価値観を超えた次元のものであると思っているからです。

 命が高い価値を持つと言っている人は、なぜそう言っているのかと言えば、そう教えられたからです。真理であることを知っているからそう言っているのではなく、それが正しいと信じるようになったから言っているだけです。

 命の尊さは人間が自分達の価値観で断定できるようなものではありません。動物も植物も、細菌でさえ、全ての命はそれぞれ生まれ持ったものを活かして生活環境を生き抜くべく精一杯生きています。
人間はそれを見て、この命は尊くて、この命は尊くなくて、と自分の価値観をもとに断定し、語っているのです。
 もし、カエルが口をきけたとして、ある日突然「世界の中で一番尊いのはカエルの命なのだ。人間の存在などゴミ以下なのだ。」と言い始めたら、人間にはその主張を受け入れることはおそらくできないと思います。
 そして、人間が自ら自分達の尊さを主張するということは、さきのカエルが主張していることとまるきり同じ事を言っていることに他ならないのです。

 まず、
自分達が自分達の枠を超えたものに対して語ることができると思うことを止めるべきだと思います。
 
命の尊さも、生きる権利も、ヒューマニズムも、人間が創り出した概念です。はっきりと述べるなら、それらは真理ではなく、やさしさとロマンに満ちた、人間が創り出したフィクションです。

 近代ヒューマニズムの基本原理は、
人の命は高い価値を持つがゆえに大切に扱われなければならないというものです。
 しかし、
人の命の尊さというものが人間が自ら創り出したフィクションであるとするならば、近代ヒューマニズムは根本から成り立たなくなります

 そして、今の時代に命の尊さが揺らいでいるのは、今まで真理として通用していたフィクションが、その足下を見透かされ出したということと大きく関連していると思います。

 近代ヒューマニズムは
フィクションを真理であると見なさなければ成り立たない理屈です。フィクションを真理として見なさないと成立しないというのは、今の時点での価値観がそこまでのものでしかないということを意味しています。
 命の大切さを子供達に説こうとして、子供達に「なぜ?」と聞かれたときに答えることができないと言うのは、その大人達の主張している“命の大切さ”というものが中身のない、フィクションを寄せ集めただけのまがい物であるからです。

 
命の尊さが揺らいでいるのは、今の人間の語る「命の尊さ」がフィクションの上にしか成立していないことから来ています。

 考えられる反論としては、「命の尊さは真理なのだ。バカなことをいうな。」というものと、「フィクションであるとしても、それでうまくいっているならいいじゃないか」というものです。

 前者は、
価値観の段階が違うことから来るものです。その反論は現時点での“常識”を正しいものと見なすことから来るものです。違う考え方であるがために、とんでもない考え方にしか見えないだけです。パラダイムの変換がおこれば、常識は変化します。

 一方、後者の意見はもっともです。しかし、新しい知識が人類にもたらされる中で、
従来通りの認識ではうまくいかなくなってきているからこそ、考え方を変化させていく必要があるのです。
 今のやり方でうまくいっているなら、やり方を変化させる必要はありません。今のやり方に問題があるからこそ、自らを変化させなければならないのです。人類は今までもそうやってやり抜いてきたのです。

 今必要な生命観は、
フィクションを前提としなくても成り立つ考え方であると思います。今まで、人間は「自分達に高い価値があるのはなぜなのか?」ということを考えるのに腐心してきました。自分達に高い価値をもたらしてくれる根拠を無くしては、自分達の不安と自尊心を埋めることができなかったからです。そうして、神やヒューマニズムなどの思想がつくられました。

 しかし、本当に考えるべきなのは、「自分たちに価値があるかどうか」ではなく、「
自分達が精一杯生きていくためにはどう考えていけばいいのか」ということです。
 命の価値や生きる権利、ヒューマニズムを生み出したものは、人間が持つ「
精一杯生きていたい」、「愛する人に精一杯生きて欲しい」という生に対する願望です。
 
最も大切にするべきなのは、命に対する高い価値づけなどではなく、生に対する願望を尊重しあう心です。
 
 それは、「
価値あるものは大切にしないといけない」というヒューマニズムの考えによる義務としての「命の尊さ」から、「愛しいと思うがゆえに大切にしたい」と感じる、願望としての「命の尊さ」への転換です。
 
 
人間が地球上で生活環境を脅かすようにもなった現段階では、人間の存在の特別さに固執し続けるのは、長い目で見れば人類にとっては害悪です。
 「
すばらしい世界の中で、尊い人間が、自分達に授けられた“生きる権利”を行使する」という世界観よりも、「不確実な世界の中で、不完全な人間が、それでも精一杯生きていく」という世界観の方がより現実的だと思います。
 人間が自らに高い価値づけをつけなくてはならないような考え方は、ごう慢でしかありません。
 大切なのは、自分達がお互いに充実感を持って、精一杯生きていく手助けとなる考え方であって、
虚栄を張って自尊心を満たすような考えなど必要ではありません
 フィクションをフィクションとして認めた上で、人が互いに大切に感じあえるような価値観が次の段階の価値観・生命観になると思います。

 たしかに、一部の国のような人の命に価値の差をつくりだしているような国では、全ての人の命を尊ぶためのヒューマニズムが実用的ではあります。
 しかし、ヒューマニズムを成し遂げた次の段階には、フィクションを前提としなくてもいいような、次の段階の価値観にならなければならないと思います。

 「身分によって命の価値には差があって当たり前だ」という時代の考え方を見て、僕達はなんておかしな考え方だと感じます。後の世代の人たちは、今僕達が常識とみなしている考え方を見て、
「人間だけが、あらゆるものの中で特別だ」など、なんておかしな考え方をしていたのだ、と感じるかも知れません。


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