誤謬が生まれるとき


 誤謬とは誤りや間違いのことです。
 価値観というものにとって、それが誤謬を含むかはとても微妙な問題です。正しいと思って信じていると思っていても、それが誤謬を含んでいるかも知れません。たくさんの人が信じているからと言って、それが真実であるとは限りません。むしろ多数の人を捉えている誤謬があるのかも知れません。

 人は時に既存の価値観の誤謬に気づき、より真実に近い価値観を創り出そうとします。しかし、
誤謬を避けようと思って新しいものをつくり出した結果、新しい誤謬を生み出すことにつながってしまうことは多々あると思います。
 誤謬が生まれるときはどういうときか、誤謬に陥らないようにするにはどうすればいいのかを考えてみたいと思います。

 
価値観とは僕達が世界を捉え、判断し、行動を決めるためのものです。価値観が人間の頭の中で作られるものである限り、その限界はすなわち人間の知性の限界といえます。
 人は発達した知性により、世界の形を考え、自分たちの意味を探るようになりました。人は
自分たちの存在に不安定感、不安感を持っているのだと思います。そのために絶対的なものを求め、そこで自分たちの位置づけをしようとします。
 人は数多く存在する生命の中のひとつに過ぎませんが、
人は自分たちを特別な存在であると考えようとします。それは願望であり、信仰です。それは誤謬を生み出す基礎となるものです。

 価値観は知性を発達させた人間にとって、生存のための武器となるものです。知性や価値観は生存という目的において、生命の性質のひとつに過ぎないと思うのですが、
人においては知性は特別なものだと一般的に考えられています。

 本来、価値観は自分がどう感じるか、どう考えるかということであり、それは主観的なものです。主観でしかないのですが、人の心のメカニズムには共通のものがあり、同じ対象に対して同じような認識をするため、自分たちの認識が普遍的であるとの感覚を持つに至ります。
 それは
人間同士でしか通じないものであると同時に、一人ひとりのとらえ方は微妙に異なっているのですが、どちらも見落とされていがちだと思います。

 自分が感じること、考えることを絶対視し、正しいものと見なすとその時に誤謬が生まれてしまいます。

 「僕は精一杯生きたいと思っている」
 「僕は世界はすばらしいものだと思う」
 これは自分にとっては真実です。
価値観は自分が世界をどう捉えるかというものであり、自分がそれをどう捉えているか、それは本人次第です。本人がそう感じ考えていること自体は本人にとっては真実です。

 一方、
 「僕には生きる権利がある」
 「世界はすばらしい」
 これは誤謬を含みます。
自分がどう思っているかということを世界にとっての真実と見なしているからです。それは価値観の次元のすり替えです。
 どう感じるかと言うこと自体には誤謬はありません。しかし、
感じたことによって世界を断定しようとするとそこに誤謬が入り込みます。それは知性の枠を超えようとする行為です。人間の知性は無限ではありません。

 主観が主観である限りそこには誤謬はありません。しかし、
主観が客観的な事実にすり替えられるときに誤謬は生じます。それは自らの世界観を絶対的なものと定義するからです。
 自分がそう感じていると言うことは自分にとっては真実です。しかし、自分が感じていることを持って宇宙にとっての真実と言うことには無理があります。
 得られた事実によって世界を想像することはもちろん悪いことではありません。しかし、
そこには誤謬を生み出す危険性があることを認識していなければいけません。

 他にも価値観の次元のすり替えを行おうとするときには誤謬が生じます。価値観は「誰にとって」ということが大切です。ある人にとっては真実であったとしても、違う人には真実ではないかも知れません。
 ひとつの立場からはそう見えるものでも、違う立場からは違って見えるかも知れません。
ある位置から丸く見えるからと言って、どこから見ても丸いと言うことにはなりません
 10円玉だって正面から見れば丸い形ですが、真横から見れば四角です。

 価値観は個人個人の頭の中にあるものであり、誤謬は
個人の頭の中にある価値観に生じるひずみです。
 ただ、社会の中の人は同じような価値観を持っているため、誤謬は個々の価値観にそれぞれ広がっていくことになります。
 価値観が個人によって微妙に異なるように、
誤謬の形もそれぞれで微妙に異なるものと思われます。ただ、人の心のメカニズムは共通の部分が多いので、似たような誤謬として表れます
 
 価値観が人間の頭の中にあるものである限り、
唯一絶対と言うことはありません。人間の価値観は相対的で変動するものであり、人間同士でしか通用しないものです。人間がいなくなれば通用しなくなるものはそもそも究極の真実ではありません。
 人間が絶対的なものを定義しようとすることの根底には
自分たちに対するエゴと存在への不安感があると思います。
 人間は不安感を埋めるため、絶対的なものを求めます。しかし、
絶対的なものを人間がねつ造しそれに合わせて全てを説明することは、世界を誤謬で埋めていく作業をしていることになります。
 本来
価値観は人がより良く生きていくためのものであるはずです。それが価値観を守るために人が生き方を強要されるのであれば、本末転倒なことであるとも思えます。

 価値観は
人間と人間社会の生存のための武器です。世界を正しく捉え判断するためには、変化する世界に合わせて少しずつ修正していかなければいけません。
 そのためには価値観に紛れ込んでくる誤謬に気づき、それを少しでも排除するよう注意しなくてはいけません。
 
誤った世界観のもので誤った目標設定をし、誤った手段を取ることは一歩間違えば自分たちの破滅へとつながりうることだからです。
 時代が変われば価値観も変わります。価値観を変化させないことよりも自分たちの破滅を避ける方がより上位に位置づけられるものだと思います。
 
より良い価値観を構築していくことは、今を生きる者の次代に対してのつとめだと思います。

 誤謬に陥ることを防ぐために、
1.
人の価値観は絶対的なものではない
2.
正しい価値観、唯一の価値観があるわけではない
3.
人の知性には限りがある
4.
自分の考えが常に正しいとは限らない
5.
ひとつの物事も時としていろんな見え方をする
6.
やたらに絶対的な存在を持ち出さない
7.
べき、はず、ちがいないと言う言葉をやたら使わない

 あたりに気をつけるべきでしょうか。
 6に関しては人の価値観や知性に関してはべき論は有効ですが、それを超えたものに対しては人の定義を当てはめきるには無理があるかも知れないと言うことです。

 誤謬はどこにでも潜んでいます。知らず知らずにつくり出され、知らないうちに人はそれに囚われています。好ましい価値観を築いて行くに当たっては、まず誤謬を把握すること、それから始めないといけないでしょう。

 まだ未完成ですが、あなたのお考えをお聞かせいただけると助かります。


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