平異の思想
大昔は世界中で不平等が当たり前でした。力のない人間は力ある物に搾取され、踏みにじられても文句も言えず、努力や能力の多少に関係なく虐げられている人たちははい上がることも出来ないのが普通でした。
時代は変わり、人間の生きる権利と最低限の生活が保障されるようになり、みんな同じ人間であり平等であるという考え方が生まれました。これにより、理不尽に不幸せを強要される人は減りました。
平等思想は社会に寄生する人たちと搾取される人間の関係を崩す大きな力となりましたが、一方でその考え方にも限界があると思います。
なぜなら、
人間はその能力・適性において等しくなど無い
からです。
いうまでもなく人は社会性を持つ動物です。社会性を発展させるために、世の中にはいろんなタイプの人間がいます。社会を形成しない動物では同じような個体が好き勝手に増えていけばいいのですが、
社会を形成するためには様々な個体がいた方がいい
のです。
みんなが猪突猛進では困ります。みんなが臆病でも困ります。
平等思想が極限まで進めば、「みんな同じでなければならない」という考えまで進みます。それには上位の人間を引きずり落とすか、下位の人間を引き上げる(もしくは切り捨てる)かです。
持つ者を落とすなら個人の能力は発揮されず、創造性・生産性を下げ、社会は衰退します。
下位に分配するにしてもうまくしないと、どれだけ働いても無意味であれば労働意欲を低下させ、社会は衰退します。
行き過ぎた平等思想は怠惰な社会を生みます。
たしかにみんな同じ人間であり、理不尽な差別や社会の階級化は許されません。しかしすでに時代は移り公の階級制度は崩れています。平等思想が生まれる時点での目標は「全ての人が最低限の人生をおくる」という事だったのだと思います。これから人間社会が目指すのは、「
全ての人がより自分を生かし幸福に生きる
」ことだと思います。そのためには「全ての人は平らで等しい人である」という考えより「
全ての人は平らだがそれぞれ異なる
」という考えの方が適切だと思います。個性があることを認めずに個性を発揮することは出来ません。
平等思想が行き過ぎると競争は良くないという考えになります。優劣をつけるのは等しくないということになってしまうからです。
競争が良くないから運動会をしないようにしようなどというのは行きすぎだと思います。それよりも走るのが早い子、絵がうまい子、勉強が出来る子、
それぞれが得意な分野を発見してそれを生かせるように育ててあげる
方がいいでしょう。
どれだけ必死に練習しても速く走れない子もいます。どれだけ勉強してもいい点を取れない子もいます。
ひとつの基準を満たさないからだめな人間だと決めつけるのは誤りだと思います
。それは人間性の否定であり、他の埋もれた才能を見過ごすことであり、社会的な損失でもあります。全ての人は幸福を求めて人生をおくりますが、なにで幸福感を得られるかは人それぞれです。自分の得意分野を見つけ、自分に出来ることを探すということが重要なのでしょう。
同じ人間などいません。
みんな違ってそれで良い
のです。完璧な人間はいないし、そんなものを目指す必要もありません。お互いが自分の出せるものを出し合って、みんなで良い社会を作っていくのです。
報酬はその社会発展にどれだけ貢献したかの見返り
として与えられるものです。
みんなが自分のことしか考えない、そんな世の中であってはいけません。
人は一人では全てではありません。人はそれぞれ適性を持ち、得手・不得手があるでこぼこした存在ですが、それをみんなで集めることにより完全に近づくのです。社会とはいろんな人が
お互いに補い合い、助け合い、支え合い、感謝しあって
成立するものです。自分に出来ることをし、誰かのためになるということこそが上位の幸福なのでしょう。
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