なぜ人を殺してはいけないか、ふたたび
なぜ人を殺してはいけないかという問題には実はひと言で答えることができます。それは「
そう決まっているから
」というのが唯一正確な答えです。
ただ、それではその問題の裏側にある、善悪などの倫理の問題にも答えておらず、そう決められていなければ殺しても良いのかといった別の疑問を生むことになります。
やはり、
「そう決まっている」ことの裏側にある「なぜそう決まっているのか」
に対しての答えが必要だと思います。
「人権」とは「社会の中における生存権」であるという定義を用いると、なぜ人を殺してはいけないかという問題に対してひとつの明確な答えを導き出すことができます。
「社会の中における生存権」の定型式は、
1.生きていたいと思うもの、生きて欲しいと思われるものは、
2.構成員として所属する社会において、
3.存在を尊重され、充実した生を追求できる。
ということであり、それは社会の構成員の同意と参加により形作られる社会のルールです。
社会というものが構成員の「精一杯生きたい」という願望を叶えるための場所
だと考えるならば、社会で生きる者としては
他人が精一杯生きようとしていることの邪魔をしてはいけない
、というが最低限のルールになります。
生きたいという願望はなによりも尊重されるべき
ものです。
社会はその願望に答えるために形成されている
と考えられるからです。
人を殺すことは、
その人が持っている生きていたいという願望を踏みにじる
ことになります。それは社会の構成員として守るべき最低限のルールを犯すことを意味しており、
社会においての絶対悪
の行為であるからです。
最低限のルールを守れない人間は社会に参加することも存在することも許されません
。
自由社会で生きる個々人は意志と行動の自由は許されていますが、それは他人に迷惑をかけない範囲でのみです。
他人に迷惑をかけてもやりたいことをする自由はありません
。
なぜ人を殺してはいけないか、その直接の理由は
みんなでそうしないようルールを決めている
からです。
なぜそういうルールが決められたか、それは
生きていたい・生きて欲しいという願望を人が持っている
からです。
法律は人の願望や想いが文章化されたものです。
考えられる反論としては、では生きていたくない人や誰にも生きていることを望まれない人は殺しても良いのかという意見が出ると思います。
しかし、
本人が生きていたいと思っているかどうかを他人が決めるのは間違っています
。
それに本当に生きていたくなど無いと本人が思ったとしても、それが
適切な判断能力の元で出された答えだとも限りません
。大切につき合っていた彼女と別れ一時的に死んだ方がマシだと考えたとしても、時間が経ち冷静になってまた生きる意志を持つようになる可能性は普通にあります。
むしろ一度も挫折や絶望を経験することなしに大人まで成長することの方が長い目で見ると良くない
ことだと思います。
絶望からはい上がった人の方が、生の喜びを深く感じることができるのだと思います。
もし環境や心情の一時的な変化によって、自分の生に絶望している人がいたとしたら、
その人が立ち直り生きる意志をまた持てるように助けてあげる社会
こそが良い社会だと思います。
望まれていないかどうかを他人が決めることも基本的には間違っています。望まれることよりも望むことの方が重要だと思います。
殺しても良いような人間は基本的にはいません。どんな人であれ、
人を殺すことはその人の持つ生きるという願望や選択肢を奪う
行為です。
他人の生への願望をむやみに踏みにじる人間はそもそも社会の構成員とは呼べない
と思います。
人を殺す人間への社会としての対処は2つしかありません。
もう一度教育しなおして社会の構成員とさせる
か、もしくは
他の構成員の安全のために社会から隔離/排除
するかです。
一番大切なことは
生きていたいと現に願っている一般個人が精一杯生きていけるようにする
ことであり、
その想いが大切に尊重され保護される
ことです。
人でなしに人権が必要かどうか、僕には分かりません。
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