ひとつの目的、多様な手段
人はなぜ社会を形成するのでしょう。社会が目指すものは何なのでしょう。僕達はそこで何を目指して生きていけばよいのでしょう。
今までの考え方の基礎としては、
人は自然の中で独立した特別な存在であり特別な目的がある
、と考えられてきた気がします。
その考え方は
見直すべき
です。
人は特別ではなく、多々ある生物の中のひとつに過ぎず、他の生物が追い求めるものを同じく追い求めている
のだと思います。ただ、
その手段が違うだけ
です。
人も他の生物も、
環境を生き抜く
ことと
次の世代への架け橋となる
ことがおそらく生としての究極の目的です。
人にとってもそれは変わりなく、その手段として知能を進化させ複雑な社会を作り上げました。
社会の目的はただひとつ、
人がそこで生きる
ということだけです。具体的に言うならば、
社会は属する人間が生命を脅かされることなく、より幸福感を味わって生きるためにある
、といっても良いでしょう。
人が幸せに生きることができるなら、どんな社会でもそれは優れた社会です。古代の社会が現代の社会よりシンプルでも、人々が幸せならそれは優れた社会といえます。ただ、複雑になった社会は元には戻れません。
社会はより良くなるために複雑になったと言うよりは、
問題点に直面してそれを回避するため、否応なしに複雑にならざるを得なかった
のです。
現代社会がより優れていると思うのはひとつの幻想に過ぎないと思います。実際には人間が選んだ選択が新たな局面・難関に遭遇することによって、新しい選択を迫られているだけなのです。すんでいる人たちが幸せで時代にあったものであればそれはそれでいいのです。
その意味では社会は変わることが目的なのではありません。
人がより良く生きることが目的であり、そのために変化した環境の元では自分たちの社会の形も価値観も意識も、そこに合うように修正していかないといけない
のです。
適応は目的ではなく手段です。時代が自分たちに合っているものなら変化する必要はありませんが、時代にそぐわなくなってきているのならそれに合うように変化していかなければなりません。
より良く生きるということを目的と考えるならば、
イデオロギーや宗教は幸福感を感じ、より健全な社会を構成するための手段のひとつ
です。
それ自体を目的とし、自分たちの目に見えるものをそれに合わせて説明するのは誤りだと思います
。
自分たちの頭の中で作った世界観のもとで人に与えられた特別な目的を考え出すならば、それはどうしても誤謬を含まざるを得ません。自分たちの存在と目的を考えるとき、まずはずすべき概念は
自分たちの傲慢さ
です。
個人がそれによってより良く生きることができるなら、それは人類にとっての優れた財産です。しかし、それを守ることを社会の目的とするのは
手段の目的へのすり替え
です。それは本末転倒に過ぎません。
イデオロギーや宗教は人がより良く生きるためにあるものです。それによりお互いに対立し怒りや悲しみを世界につくり出すのなら、それはどこかが間違っているのであり見直さなければいけません。
本来全ての人の目的はひとつのはずです。手段を目的と見誤り追い求める限り、人の心が共通になることはありません。
全ての人が対立を無くし心を結びつけ生きて行くには、
イデオロギーや宗教を超え、本来の生きる目的自体に照準を合わせないといけません
。
人はこの地球に生まれ、ともに生きる同胞です。大昔はひとつの国の中でも細かいグループに分かれ争っていました。今は少し進み、自分の国の国民としての意識を多くの人が持つに至っています。
それをもう少し前進させることは可能なはずです。それは
全ての地球上の人が同じ「ヒト」としての仲間意識を持ち、共通の目的意識の元で力を合わせて生きていく
ということです。
地球上の人間全体をひとつの社会として考え、自分たちが地球上でより良く人間らしく生き、よりよい世界を次の世代に引き継がせる
ことを目的とするのです。そこに国同士、人同士の対立は必要ありません。それぞれの違いは本来は
ひとつの目的を遂げるための違う手段
であるに過ぎません。
それは理想などではなく、僕達の世代と次の世代の目標です。
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