本質って何だ
誤謬を避けものごとの本質をつかむためには、ものごとを根っこから自分の頭で考えるという態度が必要です。
洗脳
とは
本人に思考させずにひとつの価値観を信仰させる
ことであり、
教育
とは
本人に思考させることによってより良い価値観を自身の力で築かせる
ことです。それは本質を見抜く能力を身につけさせるということです。
では本質とは何でしょうか。まず「本質」という言葉をもう少し考えてみたいと思います。よく使っている言葉ですが、実際に説明しようとするとよく分かりにくい言葉ではあります。参考として、イデア論とアリストテレスの本質論を考えてみます。
イデア論
によれば、「
この世とは違うどこかの世界にイデア界という完全で理想的なものばかりがそろっている世界があり、この世のものはその完全なイデアの写し絵・影としての形を取っている
」と主張されます。すなわち
本当に大切なものはこの世ではないどこかにある
ということを意味しています。理想のイデアがどこかにあるという考え方はとても魅力的ではあります。しかし、この世こそ僕達が生きる実の世界であり、完全な理想を追い求めることよりも「
不完全な自分達がいかにこの世界で生きていくか
」が一番大切なことだと考えるなら、この世と違う世界にあるイデアの存在は意味の薄いものとなります。
アリストテレス
はもの中には大切なもの自体が含まれていないという考え方に反発します。そして
全てのものは本質をその内部に含む
とします。幼熟な段階では本質は現れていませんが、成長して行くに連れてその本質が発現してくると考えます。
鳥を例とすれば、最初は本質の現れていない卵でしかなかったものが、羽が生え成長するにつれて「飛ぶ」という本質を発現し始めると考えます。しかし、
人間がそのものごとの本質を言い当てることが本当にできるのか
という疑問が残ります。
リンゴは甘くて栄養価が高いということがその本質であり、魚は水の中を泳ぐということが本質であり・・、などと規定していったとしても、それは
人間がその対象の特徴と感じていることを本質という言葉で説明しているだけ
のような気がします。
本質という言葉はそれが
人間にとってどういう意味を持っているか
によってつけられるものであり、
人間が対象への価値づけをするときの根拠
となるものです。だから、リンゴは食べるもので、定規は長さを測るもので・・、など人間にとっての価値がそのものごとの本質だなどと考えられることにつながるのです。
ところで、定規の本質という言葉の意味合いと、リンゴの本質という言葉の意味合いには決定的な違いがあります。それは
その対象が「何のために存在するのか」を人間が言明することが可能かどうか
です。
定規というのは人間が「長さを測るために」つくり出した道具です。それは結果としての存在物ではなく、
人間にとってのある特定の目的を持ってつくられた
ものです。そこには人間にとっての価値という言葉が誤謬を生み出すことなく当てはまります。定規というものにとって「長さを測る」という本質は、まさにその目的のために人間が定規を作りだしたことによって与えられたものだからです。
リンゴについては同じ事が言えるでしょうか。確かにリンゴは人間によって品種改良された背景はありますが、存在自体がもともと人間に対しての目的を持っていたとは言えません。
「地球に存在するものはすべて人間の役に立つために存在している」と信仰している人であれば、リンゴの存在は人間に食べられるためにあるものだと言い切ることができるでしょう。しかし、リンゴが人間の食料となるべく存在していたのではなく、リンゴが自身のために進化してきて、結果として人間がそれを食べるようになったのであれば、「リンゴの本質はおいしいということだ」と主張することは
誤謬に対しての信仰
を持っていることになってしまいます。それはリンゴの存在に意味がないということを言っているのではありません。
リンゴの存在に意味があるかどうかは人間には判断できることではありません
。リンゴの存在が人間の価値づけと別個のものであるなら、リンゴの本質が何かということを議論するようなことはあまり意味のないことではないかと思うのです。
はじめから人間が道具とするべくつくり出したものには、その意図や用途という部分が本質であるといえます。しかし、
もともと存在していたものにあとから用途を見つけ、その用途をその対象の本質とすることには人間の不遜な部分が現れている
のだと思います。
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