ヒューマニズムのこれまでの流れ


 現在では疑う人の少ない常識となっているヒューマニズムについての検証をしていきます。歴史を語ることが目的ではありませんが、その背景と流れを把握しないと全体像が見えないため、まずは歴史の流れと合わせてヒューマニズムというものを見ていきます。
 そして次のコラムでヒューマニズムの問題点と課題を書きたいと思います。

 ヒューマニズムの語源はラテン語の
フマニタス(humanitas)=人間的なものという言葉です。古代ローマ時代はローマの外側にあるbarbarus=野蛮なものとの対比で用いられていました。
 フマニタスという言葉は
広い教養・教育をも意味しています。人間的なものは生まれつき持っているものではなく、教育により身につけるべきものであり、人間の人間たるゆえんは教育により教養を身につけると言うことにあると考えられていました。

 人間らしさという意味でのヒューマニズムの起源はギリシアにあります。古代ギリシアでは多神教が存在していましたが、登場する神はいずれも人間くさい性格や行動を持つ存在でした。
 古代のギリシア人達は
人間自身を観察し、その観察を反映させて自分達の神を創造したからです。
 古代ギリシアにおいては
人間自身が観察されるべき対象として存在しており、人間らしくあることが尊重されていたと言えます。

 その後、ギリシア文明は後退し、代わってヨーロッパで主流となったキリスト教思想のもと人間を中心とする見方は影を潜めました。

 中世ヨーロッパで大きな影響力を持った思想は
スコラ哲学と言われるものです。スコラ(schola)とは教会付属の神学学校のことで、キリスト教の教義の理論づけをするためにキリスト教の立場から世界と人と生き方を探求していました。9世紀〜15世紀半ばまで大きな力を持ち、15世紀半ばから17世紀までは近世への過渡期とされています。
 
ギリシア哲学の導入が模索され、13世紀にはトマス=アクィナスがアリストテレスの哲学体系と神学との融合を果たしました。

 スコラ哲学の考えによれば、
この世には聖と邪があり、人間はその中間に属するものです。この世は死後聖なる国に行くために祈りを捧げ、正しい生活を送る場所であり、この世界と人間自体にはそれほどの価値は認められません。完全な聖なるものこそが価値を持つものと考えられましたが、人間は聖と邪を両方含むものとしての存在でした。
 教会や聖職者はより聖なるものとして価値の高いものであると理論づけられました。

 一方で
教会は富と権力に腐心し堕落していきます。愛を与えることを説いていたキリスト教はいつの間にか教義を忘れ、自らの権力の掌握を追い求めながら、人々を抑圧します。
 聖職者としての役職すら売買の対象となります。自分達は地位の駆け引きのために富を集める一方で、人々には清貧の生活を奨励し祝福された来世のために富を寄進することを喧伝しました。
 
 トルコによるビザンツの圧迫を受け、教皇権主導により1096年から
十字軍が始まります。教皇は自らの権威の隆盛を意図しますが、東方正協会側とイスラム教側から見れば十字軍は殺戮と略奪の象徴でしかありませんでした。
 結局十字軍は失敗に終わりますが、その結果として、
教皇の権威の失墜、イタリア北部諸都市の繁栄、諸侯・騎士層の没落、ギリシア地方からの学者の移住とそれに伴う新しい知識の獲得などをもたらします。

 13世紀後半から16世紀にかけてイタリア北部のフィレンツェなどの都市国家を中心に
ルネサンス=人間の再生が始まります。
 十字軍によってもたらされた上記の要因の他、メディチ家などの保護のもとに芸術の振興が促され、ギリシアなどのヨーロッパ文明の原点の再発見・再確認が見られます。

 教会によって人間性を抑圧されていた人たちにとって、ギリシア文明への新たな出会いは新鮮なものでした。そこでは
人間の内部への観察と現世の肯定、感情などの素直な表現がされていたからです。
 また、人間的に
考えること、悩むことにも価値を再発見したことは大きな事と考えられます。堕落していた教会にとっては一般信者が疑問を持つことは自分達の所業を暴かれ権威が揺るがされることにつながります
 そのため、考えることは悪魔に耳元でささやかれることだと教え、教会での説法にもラテン語を使用し、聖書と一般信者を隔絶させることによって自分達の地位が脅かされないように工夫をしていました。教会は自由な精神を圧迫している存在となっていました。

 ルネサンスにより
人間自身が価値あるもので、現世は喜びに満ち、人間的思考も意味のあるものだと再認識されるようになりました。そして、はるか昔にすぐれた芸術・文化を人間が築いていたことを知ったのでした。しかもその文化はキリスト教の存在しない時代のものでした。

 ルネサンスは
人文ヒューマニズムと呼ばれ、本格的な近代ヒューマニズムとはまた別個のものです。そこでは表現は芸術・学芸の範囲に止まっており、社会のあり方にすぐに反映されるということもありませんでした。
 しかし、
人間の内部に目を向け、人間の感情・理性・思考、個人の存在に価値を見いだしたという点では大きな意義があり、近代への転換の大きな要因となります。

 その後、ルネサンス自体は何を表現するかよりもいかにして表現するかのテクニックを競うようになっていき、目新しいものを無くし同様の表現を繰り返し用いるマニエリスム(マンネリズム)へと移り変わります。生き生きとした時代は16世紀上旬までと言われていますが、1600年のジョルダーノ・ブルーノの死をもって一応のルネサンスの終結とされています。

 ルネサンスが勃興する一方で教会も変質していきます。人間性の再発見と教会への疑問は2つの大きな流れを創り出します。
 ひとつは異端審問会の制定(1233)、教会による魔女裁判開始(1318)、フスの火刑(1415)、などに象徴される
教会による異端者の粛正です。

 もう一方は
宗教改革です。教会による教義のねつ造と不道徳、富と地位を求める姿に対してルターやカルヴァンなど、新しい信仰のあり方を提唱する人たちが現れます。

 それらにやや遅れる形で国王の権力を絶対的なものと見なす
絶対君主制の国家が現れました。
 その背景にあるのは、
十字軍の後没落した諸侯・騎士の支配力と、教皇・教会の権威の低下です。
 人の間には価値の上下、貴賤の差があり、平等ではありません。
 絶対君主制において王権の根拠は
神から直接与えられているとされました。政治・軍事的な支配力は国王が持ちます。しかし、一方で都市に暮らす市民は富を蓄え、経済力を増し、印刷技術の向上などにより知識を得ていました力により抑圧される一方で、考える力を身につけていた市民は市民社会と人々の権利についての思想を手にしていきます

 自分達の精神と生命・財産の安定の拠り所として、
教会や国王を頼るのではなく、自分達の手でそれを可能にする社会を形成していくことを考え始める所まで来たと言えます。

 上から押さえつける国家にかわり、人民が主体となる市民社会を到来させたのが
市民革命です。
 思想としては
社会契約と呼ばれる一連の考えが市民革命の基礎となっています。その思想はホッブズロックルソーなどを経て完成され、1688年のイギリス名誉革命、1789年のフランス革命などを通して結実されていきます。
 フランス革命を持って
近代ヒューマニズムは一通りの完成をしたといえます。すなわち、古い制度の否定により、人民は法の名の下に自由と平等を約束され、誰も生命と財産を保証されるということを明文化したのです。
 かつては人の価値は神によって与えられたものであり、神の権威のもと人の間に貴賤の差を正当化していました。
 近代ヒューマニズムのもとでは
人の理性を根拠として、人を平等としたのです。「特別な存在である神との特別な関係を持つ人間は特別な存在である」、とされていたのが、「人間はそれ自体が高い価値を持つ特別な存在である」、という理論になったのです。
 神との関係でしか語られなかった人間の価値はこの時から
神の存在とは独立したものになりました。

 フランスで完成したヒューマニズムは新たな国家の形、すなわち人民を主体とする
国民国家を創り出します。
 衝撃に揺れる他の国家との戦争を繰り返しますが、他のヨーロッパ諸国も、形は様々でもおおむね
国民国家への流れを歩んでいきます。

 国民国家の最大の利点は
戦争に強いことです。「自分の国のために」という思いは「命じられて仕方なく」という立場よりも大きな志気を得られます。
 市民革命はヒューマニズムを創り出しましたが、それが
国民の外には向けられませんでした自分の国の国民は平等で財産を保証されますが、自分の国家の隆盛のためには他の国の財産を奪い、人々を踏みにじることもいとわれませんでした
 実力が至上の世界の中で時代は
帝国主義を生み出し、国民国家同士が覇を競い合う世界となります。世界は実力で分割されながら、西欧中心の世界に飲み込まれていきます
 
自分達の国の仲間を大切にすると言う目標は、自分達の国の利益を第一に考えるという目標にすり替わっていきました

 その後、後発国に
ファシズム社会主義と言った動きを生み出し、世界大戦・冷戦を経て今に至ります。

 
人を大切にするはずのヒューマニズムは帝国主義とそれに続く世界大戦を防ぐことはできませんでした
 それは
「自分達」という枠を超えて相手を受け入れることのできなかった不寛容が大きな要因だと思います。キリスト教の最も大切な教義は「相手を愛する」ということであったはずです。しかし、自分と異なる相手に対しては受け入れることも許すこともできませんでした

 キリスト教の精神の影響のもと生まれたヒューマニズムは今では宗教の枠を超えた広がりと影響を持っています。
 これからのヒューマニズムにおいては国といった枠を超えた、
人類全体に対しての配慮人の枠を超えた世界自体に対しての配慮が必要になると思います。

 かつてヒューマニズムは「人間中心主義」でした。
人間から離れた視点から人間とは離れた対象に目を向かわせていたものを、人間の視点から人間自身を対象として見ることを可能にしたという点ではその功績はすばらしい財産だと思います。
 しかし人間を中心に見ると言いながらも、最も重要視されるのは同じ国家社会に属する仲間同士の配慮であり、
自分達の外側のものに対しては無配慮な一面もあります。また、人間を中心に考える思想からは人間とは異なるものを人の都合次第で扱うこともいとわない姿勢が導き出されます。
 現在では
人道主義humanitarianismというものを融合させ、人間中心主義だけでは欠けているものを補填する意図を持つ第三のヒューマニズムとでもいうべき時代に来ていると思います。

 ヒューマニズムは未だ完成されているものとは言えません。問題点と今後の課題はまだ、確かに存在すると思います。その問題点と改善を考えるのは他ならぬ今を生きる僕達自身です。
 次はそこのあたりを考えてみます。


このHP内の文章、イラストの無断転載を禁じます。
著作権の一切は二本松昭宏に属します。
ライン

あなたのご感想を心からお待ちしております。

おなまえ(ハンドルでも)

メールアドレス(できれば)


性別

メッセージ・ご感想