ヒューマニズムの次の段階
ヒューマニズムの次の課題は
・
誤謬を含む部分を極力無くす
・
理論の根拠についての問題を解消する
・
ものごとについての価値のあるなしを問題とさせない
・
人間中心の世界観を見直す
・
人間を生きる主体としての立場に引き戻す
といったことです。
ヒューマニズムの考え方の目標は人がより人間らしく生きることを可能にすることです。概ねそれを可能にはしてはいますが、同時に誤謬を創り出してもいます。
誤謬はなるべく閉め出した形で価値観を形成
していかなければなりません。
理性を信頼できるものとして物事の価値についての根拠としていますが、それは無理があります。先に述べたように
理性はそれほど絶対の基準となるものとは思えません
。
そもそも
根拠を必要としなければならないような価値観のあり方に問題がある
と思います。
なぜヒューマニズムが創られたかを考えれば、それは幸せに生きていたい人がいたからです。
そう願う気持ちは理性ではなく、願望によるもの
です。
「生きなければならない」「生きる価値がある」、その理論には根拠が必要です。
絶対の基準となるものがなければ生きることに対しての位置づけができない
からです。
しかし、本当の大本は「生きていたい」と思う気持ちです。なぜそう思うか、それは命に価値があると感じるからです。
願う気持ちや感じる気持ちに根拠は必要ありません
。生きることに価値があるかどうか出なく、生きることに喜びを感じる自分が存在することが自分自身にとっては一番大切なことなのです。
ヒューマニズムの源泉は人の願望です
。
根拠は必要ありません
。
ただ、望むなら何でもして良いのかというとそれは違います。
望んだことを成すべきか、我慢すべきか、どういう方法で求めていくか、そこに関わってくる
のが
理性
です。
理性は根拠を成す部分ではなく、願望から出る思いを制御し、あるいは修飾するものです。
願望を源泉と考えれば、絶対的な真理や価値づけの正当性も問題ではなくなります。正しいから行うという名目の前には常に「本当に正しいと言えるのか」「正しさとは何か」などの疑問がついて回ります。
正しいから行うのではなく、望むから行うのです
。
人間が価値の高いものだと判断するものは大切にしなければならないが、人間が価値の低いものだと思うものはぞんざいに扱われても構わないという考え方はおかしいと思います。人間の決めた価値づけに絶対的な基準を与えているからです。
人の命は何よりも尊く価値が高いが、カラスの命にはこれっぽっちの価値もないというのは
人間の傲慢
から来るものだと思います。
人の命に対してもそうです。ヒューマニズムの考え方は価値づけをすることを前提としています。それは価値があるものであるから大切にしないといけないとされるのです。
人間が価値づけをしてそれを絶対的真理とみなすことは誤謬を生み出します
。
誤謬を生み出さない価値観のためには価値づけをしなくても相手を大切にできるような考え方が必要です
。
その根本的な解決をするひとつの方法は、理性を根拠に持ってくることではなく、
願望を源泉
と捉えることです。価値あるが故に相手を大切にするのではなく、
相手を大切にしたいと思うが故に大切にする
ことです。
価値づけには根拠が必要ですが、大切にしたいと思う気持ちには根拠は必要ありません。絶対的な真理も必要ありません。いとおしく思って大切にすると言うことは
自分が主体的に相手に接する
ことであり、
相手につけられた価値によってではなく、相手の存在そのものに対して敬意を払う
と言うことです。
相手を大切に思わないなら大切にしなくて良いというものではありませんが、相手を大切に思う気持ちは相手を大切にする行為の出発地点です。
愛されるだけの価値があるから愛するということは本当の愛ではなく、ただの
プラグマティズム
(実利主義)です。存在するものを存在するものとしてまず受け入れ、いとおしく感じることが愛だと思います。
次の段階のヒューマニズムには、相手をいとおしく思うが故に大切にするという
慈愛の精神
が基礎となるのだと思います。
ヒューマニズムが戦争を防ぐ力とならなかったのには、
国家という枠を作りその中に属するものを外部に属するものよりも高い価値づけをした
という事がひとつの要因となったいると思います。
価値の高いとされる人の利益は価値の低いとされる人の利益よりも優先されます
。それは
価値の高い存在は価値の高さ故に尊重されるという理論の帰結点
です。
愛され、大切にされるのは価値の高さ故ではなく、その
存在故
のものである方が良いと思います。
あなたが子供を愛するのは子供が高い価値を持つと信じるがためのものでしょうか?それとも子供が子供であるがためのものでしょうか?
枠を作りその中の人間の利益を目指すのはヒューマニズムではありません。ヒューマニズムの精神を大切にするならば
枠を超えて相手を思いやる
ことができると思います。それは相手の価値のあるなしではなく、
人を人として大切にする精神
であるからです。
国の枠を超えたヒューマニズムを邪魔するものは
自分達の利益を第一に考えるプラグマティックな感情
と、
知らず知らず枠の中と外に価値づけをしてしまう人間の習性
です。
価値のあるなしを論じる世界観からは、「高い価値を持つ存在である人間がすばらしい世界の中で生きる」という前提が必要
となります。
やはり、ここでも人間は高い価値を持つが故に世界の中心に存在するのが当たり前であるという結論が出てきます。
むしろ、より素直に世界と人間を解釈するならば、
「不完全な人間が不確実な世界の中で、それでも精一杯生きていく」
という世界観の方がしっくり来ると思います。
世界は果たして人間のためにあると言い切れるでしょうか。人間は全ての生物の中で最も優れた存在だと言い切れるでしょうか。
世界が人間を生み出すためにここまで発達してきたと考えるよりは、
世界がここまで発達してきた結果として人間が生み出されたと考える方が人間はむしろ楽になれるのではないでしょうか
。
人間の存在に意味があるのか?人間は価値がある存在なのか?
それらの問いにひと言で答えることができます。「
その問いは人間自身が創り出したもので、その答え
をいくら考えても答えは出ないし意味がない
」。
人間にとっては世界の中で精一杯生きていくこと自体の方が重要だと思います。
人間のためにあるはずだという意識は、災害や自然の変化によって人間が傷つけられたときに憤りを感じさせます。
なぜ憤りを感じるのか?それは最初に
「自然は人間により良い環境を提供するのが使命だ」と勝手に自然に対する思いこみ、意味づけ、価値づけをしてしまっているから
です。
自然は自然として、世界は世界としてただあるのであり、人間の価値づけは後から人間が勝手につけたもの
です。
世界を世界として人間を人間として素直に捉え、人間の価値づけがなるべく必要とならない世界観を築くことが必要だと思います。
全ての人にとって大切なことは自分が自分らしく精一杯生きるということです。そのためには
自分が自分の人生の主人公となって主体的に人生に働きかける
ことが必要です。
人として生まれてきたからしょうがなく生きる、というのでは自分が自信の人生の主人公ではなく、
人生の奴隷
として生きているということです。
ヒューマニズムの目的は人が人らしく生きることであり、自由な精神を保たせることです。
生きなければならないという縛りは自由な精神を生むことにはつながりません。
自由な精神は「生きていたい」「自由でありたい」という心の奥底からわき出る願望によってのみ可能
です。
義務だから生きるのではなく、生きていたいという願望を持つから生きる
というとらえ方によってのみ、人は生きる主体としてのあり方を手にすることができます。
「
願望を源泉とするヒューマニズム
」は生きていたい・生きて欲しいという気持ちを大切にするヒューマニズムです。
最初に言ったとおり、
理性は願望の暴走を防ぎ、より良い方法を指し示すためのもうひとつの車輪
です。
それこそが次世代のヒューマニズムの姿だと思います。
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