生きるということは命を奪うということ


 すべての生きとし生けるものはそれぞれの命を持っています。それは人においても他のほ乳類においても、昆虫においても、また植物においても同様です。生命としての形が違うだけで、地球上に生きるすべての生命は同胞としてまたライバルとして個々の生と種の存続を目指しています

 
僕達人間は他の種の命を奪わずに生きていくことはできません。それは完全従属栄養生物として生を受けたものの宿命です。
 生命の中には自分自身でエネルギーを作り出し、他の種の命を奪う必要なく生きていくものもいますが、僕達はそうすることはできません。
 それは変えることのできない定めであり、僕達は人として生を全うすることしかできません。

 人の中には動物食を避け、植物食のみで生きようとする人たちもいます。動物の感じる痛みを思いやり、動物にできるだけ苦痛を与えたくないために肉食を避けるという考え方です。
 それはやさしさの心から来るものであり、人の価値観のひとつです。

 ただ、生命を奪うと言うことから考えれば、
植物を食べることであっても命を奪うという事に変わりはありません
 動物は感覚を発達させ、痛みを感じることにより生命の危険からの回避を行おうとすることができます。植物には動物のような神経の発達はないため、動物のような痛みを感じているとは考えられません。

 しかし、
生への衝動という点から言えば動物にも植物にも変わりはありません。体が傷つけられれば、意志の有無とは関係なく傷をふさぎ治癒しようとします。細胞を取り出し適切な培地の上にのせれば細胞は増殖しようとします。
 「生きようとすること」は
遺伝子レベルで生命の中に刻み込まれた宿命とも言えるかも知れません。

 人が生きるということは他の種の命を奪うことに他なりません。命を奪うこと無しに、僕達は生きることも子孫を残すこともできません。
 
僕達は僕達のために奪われた命の上に立って今ここに存在しているのです

 ここまでは科学的なことに基づく話です。ここからはどちらかというと思想の範疇になります。

 善悪が人間の作りだした価値観に過ぎないならば、自分たちが生きるために他の命を奪うこと自体は善でも悪でもなく、種としてのあり方によって定められた宿命です。
 ただ、
その事に対してどう向き合い、それをどう捉えていくかは僕達人間の心の持ち方次第です。

 他の命を奪うことにより生きるということは、他の命のおかげで自分たちが生きているということです。
僕達は自分たちが犠牲にした命を背負って生きているとも言えます。

 他の命には人間ほどの価値が無いため、特別な価値を持つ存在である人間のために他の種の命を奪うことは正当である、という論理は好きではありません。
 
他の種の命も、僕達と同様に生を全うすることを目指しています。その事においては、人の命も他の命も何ら変わりはありません。
 人が生きるということは、精一杯生きようとしている他の命を奪って自分が生きる糧とするということです。

 
命をいただいて生きていながら、その命を精一杯生きることに用いないことは犠牲となった命を踏みにじる失礼なことだと思います。
 精一杯生きようとしている途中で命を奪われたもののためにも、僕達は自分たちの命に対して真摯でなければならないと思います。

 僕達は自身の特質でもある
エゴによって、世界を自分たちに都合良く見ようとする習性があるようです。
 なるべくエゴを排して世界と向き合っていこうとするならば、自分たちと世界に対して謙虚であるように努めていなければならないと思います。

 自分たちが特別であるという言葉が真実かそうでないかを考えるよりも、自分たちは特別だとは思わない方がいいのだと思います。

 自分たちは人間であるから生きる価値があるのではありません。
 
他の命をいただいているからこそ、謙虚に、真摯に生と向き合っていかなければいけないのです。


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