生きる自由、生きようとする自由
自由という言葉はいろいろな用い方をされています。婚姻の自由、信仰の自由、言論の自由などなどです。
命あるものとして、より良い生を望むのはもっともなことだと思います。
一方で、自分の気ままな行為を行うことや他人に迷惑をかける行為までが自由という名の元で保護されるべきなのでしょうか。
結論から言えば、
絶対的な自由などは存在しません
。
自由は個人が社会の中でより良く生きていけるために考え出された概念
です。
全ての人が幸福に生きることのできる社会を目指すのであれば、自分が何をしようが構わないと言う理論にならないのは当たり前です。理不尽に他人に迷惑をかけてはいけませんし、迷惑をかけてもいけません。
自分が自由にできる部分は、自分の行動そのものではなく自分の意志と願望の部分
です。世の中の物事に接してどう思うかは本人の自由です。
しかし願望そのものを全て行動に移して構わないと言うわけでもありません。自らの良心に照らし合わせて、やって良いこと、やってはいけないことを判断しないといけません。
近年むやみに権利が叫ばれることが多いですが、権利の概念はもう一度考え直される必要があると思います。
権利の概念は誤謬を含みやすい
モノです。絶対的な権利があるわけではありません。絶対的な自由もありません。
例を出して述べます。誤解されそうですが、注意して書きます。
「生きる自由」は人間にはありません
。
あるのは「生きようとする自由」です
。意志と願望をどう持つかは個人の自由ですが、個人を超えた枠組みの中においては個人の意志・願望は反映されない場合もあります。
「生きる」ことは本人が持つ権利としての結果ではなく、
「生きる」という行動の選択肢を選ぶ
と言うことです。
人間に自由にできるのは意志と願望の部分です。そしてそれは社会の構成員としての個人が社会の中で何より大切にされるべき部分でもあると思います。
社会は「精一杯生きる」という選択肢を個人が選ぶことができる場所
であることが望まれると思います。生きることは権利ではなく、行動の選択の結果であり、個人の意志と願望の延長としてのものです。そして、行動を選択した結果、他の個人や社会に対して
責任
を負うことになります。
個人が生きていたいと思うかどうかは本人次第です。生きることに不安や絶望を感じている人がいたとしたら、周りは本人が
生きていたいと思わせる
ことに主眼をおいた方が好ましいと思います。
目標はないがただ生きているという人生よりも、
生きていたいという願望を持ち自らの意志でより良い生を望む人の人生の方が価値あるもの
だと思います。
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