「生命の尊さ」はいつ成立したか


 「命は尊い」、この概念は今では常識となっていますが、恐らく人類が誕生した当初から有ったものではありません。いつ頃からこの概念は生まれ成立したのでしょうか。歴史をたどりながらその成立を考察していきます。
 東洋史はすっぽり抜けていますが、現在の人権思想は西洋由来ですのでそちらを考察したものとなっています。

 一番最初の人類の文献は当然残っていませんので、残された生活の形跡からそれらをうかがうしか有りません。
 最初は
狩猟生活だったと言われています。そこでは人間は生物の一つ、自然の中の一部でした。信仰といえるものがあったとしてもそれは自然に対する素朴なおそれの感情であったと思います。
 その頃は集団生活は外敵に対抗する手段としてのものであり、仲間の命に対する感情も愛情など
本能に根付いた素朴なものであったと思います。

 続いて来るのは
農耕の発展階級社会の成立です。
 寒のぶり返しによる食糧危機の中で農業を発達させていった後、定住しての集団生活は治水・農耕を行う組織作りのための
リーダーを生み出しました。
 農耕が軌道に乗り余剰備蓄が可能になると、富を持つものと持たないものの区分ができ
社会階層ができました。また、農業に従事しない人間の出現による職業が誕生しました。
 社会階層の頂点に立つのは王侯貴族、司祭などの支配層です。
 王侯貴族は主に武力の力で人々を従えました。
 農耕が天候の影響を受けるようになるとそれを神格化しそれを祀る階層が大きな力を持つようになりました。
 人間はいつしか自然の中で特殊(特別でありません)な地位をもつにいたり、
自分を特別な存在だと思うようになりました。

 「命の尊さ」が特別な意味を持ち始めたのはこの頃だと思います。
 それまでは人間は自然の中の一部でしかありませんでした。弱肉強食の食物連鎖からの離脱、農耕の発達による社会の発達は人間に特別意識を持たせたのです。
 ただし、人の命が全て尊いと言うわけではありません。
 たしかに人は特殊な地位になりましたが、それと同時に
人間の中にも階層による区分を作ってしまいました。
 王侯貴族や司祭の階級は自分たちの既得権益を確固たるものにするため一つの概念を作り上げます。「
この世には高貴な人間と下賤な人間というものが存在し、自分たちは高貴なるが故に支配する権利を持っている」と言うものです。

 
階級社会ができるまでは間違いなくみんなが平等でした。ただし、それは皆が等しく価値があるというのではなく、その逆で皆が等しく自然の中では特別ではないと言う意味です。

 社会の成立に伴い、それは富と権力を持つ一部の人間と、それらを持たざる多数の人間とを生み出しました。
 「高貴な人間」にとっては「下賎な人間」と命の尊さが等しくあるという考えはとうてい受け入れられるものではありませんでした。そんなことは想像すらしなかったものと思われます。
 その時点での価値観は「
人間は自然の中では独立した特別な存在であるが、その人間の中にも命の尊さにおいて上下の差が存在する」という状態でした。

 一部の人間が他多数の人間を支配するという構造の元では命の平等はありえません。
真に平等だと言うことになると、支配の根拠が揺らぐからです。
 被支配層は知識も思考力もない方が支配層にとっては都合がいいのです。一部の特権階級の人間に判断力と選択がゆだねられますが、欠点として支配層が選択を間違えると社会の安定が損なわれるという部分があります。

 その後しばらく理不尽で不平等な時代が続きますが、途中でそれまでは無かった概念が登場します。
 
一神教の中から「全ての人の命は平等だ」という概念を持った一派が現れたのです。この概念は革命的でした。それまでは、それを生み出した一神教の中にすらそのような考え方はなかったのです。
 皇帝による支配体制を持つ帝国はこれを弾圧します。しかし、この新しい信仰は西洋で広がっていき
後の平等の概念の基礎となります。
 教会は信仰が各地に広がっていく過程で支配層と結びつき、変質し新たな支配層となっていったため平等意識が根付くには至りませんでした。
 新たに支配層となった司祭たちはその教えの一部しか人々には見せませんでした。社会階層を支持し自分たちはその上層に位置ことを選択したため、自分たち自身が本来の教義とは異なることになってしまいました。識字率も低く司祭を通してしか教えに触れることもできませんでした。
 かつて蒔かれた種が実を結び、命が平等と言う概念が本当に一般的になるのはもう少し先です。

 現在の「命の尊さ」の基礎ができあがったのはフランス革命のあたりからです。
 フランス革命を通じて社会階層の否定が唱えられ、人民は等しく平等となり「
人間の命は皆等しく価値がある」という概念が確立しました。その基礎となったのは新しい信仰の概念でした。
 印刷技術の向上等によって経典を直接読むことができるようになり、本来の教義に多くの人が直接触れることができるようになっていました。

 皆がそれぞれ対等に構成員となるという社会の元では広い見識が得られ、一部の人間の判断ミスで致命的な失敗がおこりにくいですが、その分社会全体の見識や倫理観が高いことが必須となります。
 構成員の見識が低く倫理観がない状態でみんなで社会の行き先を決めようとしても、好ましい未来にはたどり着けません。
 皆が対等な構成員として参加する社会においては
「命の尊さ」は倫理観を根底から支える最低限の価値観となります。
 命に価値を見いださず自身の欲望のために他人を踏みにじることをいとわない人間が増えるなら、社会は良くなっていきません。

 国民主権、人民平等の思想が生まれたとき、命の尊厳という倫理観の基礎となったのは「
尊い創造主が作った尊い存在である人間の命は皆同じく特別な価値がある」と言うものでした。
 これは新しい価値観の形成と言うよりは、2000年前に創られたものの再発見の結果であると思われます。

 西洋の地域内においては世界観と命への倫理観は宗教というものを背景にしてのワンセットでした。
 その後、それ以外の地域に近代的な価値観が流出していく過程で、世界観と倫理観は少しずつ分離していきます。
 一つの大きな要因は自然科学の発達です。より人間自身と世界の成り立ちに対する知識が増え、かつ倫理観が発達してきた
現在の社会においては命に対しての倫理観は宗教とは別でも存在し得ます。
 
現在での自分たちへの認識、命への認識は「人間は特別な存在ではないが知性によって地球上の覇権を握るに至っている」「人間はお互いに命を尊重しあって共存していかなければいけない」というものに変わりつつあります。

 そして
これからどうなるか。
 命を大切に感じるのは
生まれ持っている本能プラスお互いを尊重し合うに至った価値観の力によるものです。
 命に対しての価値観はこれからも少しずつ変化していきます。命に対するとらえ方もあと何百年かすれば今の形とは恐らくまるきり変わっていると思います。

 人が無知である時代は過ぎ去りました。人の繁栄は極みに達し、人が好き放題できるわけではない時代になっています。
人が特別であるという思想は害悪とさえ呼べるものになりつつあると思います。
 一昔前までは(今でもですが)人は特別であるが故に命に価値があると思う人が多数いました。
 本来、人間が特別であるかどうかと人の命に価値があるかどうかはまた別の問題です。しいて言えば人の命に価値があるかと言うことと、人の命に価値を認めるかと言うこともまた別のものです。
 
人は特別ではない、だが人はお互いに尊重しあって生きていかなければならない、その二つを整合性を持って成り立たせる価値観が次の世代の価値観です。
 確かに困難だと思います。でも挑まなければなりません。

 人間社会の発達に終着点があるのかは僕には分かりません。確信を持って言えるのは
今の姿が終着点ではないと言うことです。

 お互いに違う旗を振りあって殺しあう、そんな時代はもううんざりです。地球上でみんなが協力しあい、お互いを尊重しあって生きていく、そういう世の中になってくれることを望みます。
 人という生物がそれだけのポテンシャルを持っているかは誰にも分かりません。でも、それに近づけるようにみんなで努力をしていかなければなりません。
 それこそがこの世に生を受けた僕達が精一杯生きるということなのだと思います。例え一人では世界を劇的に変える力が無くとも、自分にできることをそれぞれが精一杯行っていくしかないのでしょう。


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