子供に「生命の平等」をどう教えるか


 命が真に平等であるならば、僕達は僕達が生きていくために他の生物の命を奪って自分達のために役立てることは許されません。自分というひとつの命のために他の等価値の無数の命を奪うことは、「命が平等である」という論理と矛盾するからです。

 少なくとも、子供に「命は平等だ」と言いながら、大人がそれと矛盾した行動を取っているのは子供から見ればおかしいと思うでしょうし、論理的にも破綻しています。大人側がもう一度「生命の平等」について、きちんと整理しなおさなくてはいけません。

 大人は、実際に心の中で行っている思考と別の建前を持っており、その建前の方を子供に伝えようとしながら自分は心の中の思考に従って行動し、自身でその思考に気づいていないため変なことがおきるのです。自分の心の中の思考と実際に子供達に語ることの間にどれくらい開きがあるのかを知り、可能な限りその溝を小さくしていく方がよいと思います。

 そのためには「生命が平等だ」ということを絶対的な前提とするのではなく、
自分達がどういう思考に基づいて「生命が平等だ」と思い、言っているのかを整理した上で、どう考えるようにすれば、どう説明するようにすればより矛盾が少なくてすむのかを考え直すことが必要だと思います。

 他の生命を人間のために犠牲にすることを子供達に説明するということを例にとって考えてみます。まず伝えるべき事は、
1.
どの生物も与えられた命の中で精一杯生きているということ
2.
人間は他の生物を犠牲にしないと生きていけないということ
3.
人間は自分達の役に立つかどうかによって他の生物に価値づけを行っている

 ということです。
 
他の生物が生きているのは自分達が生存し、自分の種が存続するよう自分達のために生きているのです。人間はその「自分なりに精一杯生きている生命」の命を奪って、人間のために犠牲にしているのです。それは善でも悪でもなく、人間が人間として生きていくための宿命であり、他の種を犠牲にすることも人間が生きていくために必然のことなのです。

 そう言われると、「かわいそうで食べられなくなってしまうから、食品とされているものについてはそういうことを議論にするのをやめよう」などといった意見が出てくるかと思います。しかし、一部の生物を食品と区分し、定義することこそが、
生命に価値づけをしているということであり、人間中心なところであり、また本心と言動との間に溝をつくる部分であるのです。

 大切なことは、「罪悪感を感じるようなことには、蓋をして、目を背ける」ことではありません。まず
自分達が何を行っているかを直視することです。そして、精一杯生きている命を自分達は奪って生きているのだということを自覚し、その犠牲にした命の分まで精一杯生きるべきではないかと思うのです。

 また、価値づけをすること自体は善でも悪でもなく、人間が特性として持っている部分です。その生物が食べられるかどうか、役立つ部分を持っているかどうかを考えることは、人間が生きていくということのために判断していることであり、必然的なことです。

 ただ、それ自体が主体として生きている生物に対して、人間は自分の都合によって価値づけを行い、その価値づけを正しいと思いこんでいるということは自覚しないといけません。マグロが赤身の筋肉を持っているのは人間に刺身にされるためではなく、懸命に泳ぐことで生存し続け、種の存続に結びついていくためのものです。その肉は
人間に食べられることが目的としてあるわけではなく、“たまたま”人間が食料とするのに都合が良かっただけです。

 
どの生命も自分達の生のためにそれぞれ生まれ持った能力や適性を活かしつつ、自分なりに精一杯生きていますその中で人間も、自分達が生きていくために、知性など自分に与えられた能力を活かして生きているのです。知性から生まれた価値観が人間にとってはとても大きな力を持つために、人間が考えているだけなのに、あたかも“客観的に”そうであるかのように感じられてしまうのです。

 生命は平等です。それは等しく価値があるのではなく、
等しく精一杯生きているということにおいてです。種としての違いは相対的なものであり、人間は数多くある生物の中のひとつの種にすぎないからです。等しく価値があるのではなく、人間の語る“価値”自体が人間を超えた枠組みの中では意味をなさないということです。

 子供に最初に伝えていくべきこととしては、
どの生命も精一杯生きているということを中心に教えていくのが良いと思います。どの種も精一杯生きているということは、その種を生きる主体として見なすことです。

 人間以外の生命に人間の価値づけを行い、その価値づけを持って尊いから大切にしなければならないと語ることには誤謬が含まれています。
 生命の存在は
人間の価値づけとは全然別個にあるものです。全ての生命をそれぞれが精一杯生きる主体であることを伝えるのは、全ての生命を生きる主体として尊重し、子供が「自分も精一杯生きよう」と感じることにつながると思います。

 ただ根拠も無しに、「生命は平等だ」とそれだけを教えるのは、あまり良くないことではないと思います。
平等かどうかを述べようとする時点で、人間がひとつの価値づけを他の生命にしようとしているのであり、自分達が普段他の種を犠牲にしているということとすでに矛盾しており、目を背けているからです。


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