生命が真に平等ならば


 全ての動物の命は平等だと信じ、主張する人がいます。また大人はしばしば、「命はみんな平等なんだよ」と子供に言います。しかし、それぞれの種の命を平等に扱うことは難しいことであり、人間にはおそらくできないことです。僕達は意識しているにしろ、していないにしろ、命に価値づけを行っており、またそのことに気づかずに生活を送っています。

 人間は小鳥を見てかわいいといいますが、ミルワーム(ゴミムシダマシの幼虫)を見てかわいいという人はあまりいません。いても変人扱いされるでしょう。鳥のヒナが保護されたとき、人は「かわいそうなヒナを助けるために、無数のミルワームをヒナに食べさせる」ということを普通にします。
命が真に平等であるならば、ひとつの命を助けるために無数のミルワームを犠牲にすることは許されないはずです。

 また、人はクジラを見てかわいいと言う一方で、スーパーマーケットに行った時には、陳列棚に無数の魚や動物の肉が並んでいる中からパックを取り、食卓に食事として出すことをごく普通の行為として認識しています。
命が真に平等であるというならば、僕達自身も魚や肉を食べながら生きていくこともできなくなります

 一部の細菌類など完全独立栄養生物以外にとって、
他の生命から栄養を摂取する以外に生きる道がないのは、変えることのできない宿命です。僕達が生きるということは、無数の命を犠牲にしながら生きるということです。真に命が平等だと主張することは、人間自身が生きていくことすら禁止せざるを得ないということを意味しています。

 でも、僕達は鳥にミルワームを与えることも悪いことだとは思いませんし、ましてや命の平等を理由に生きることを放棄するという選択もしません。それはなぜでしょうか?

 命が平等でないと感じていながら、子供達に命の平等を説くのはただの欺瞞です。
 命が平等ではないのに平等であると信じているだけなら、思慮が足りません。

 果たして命は平等なのでしょうか?子供達に命は平等であると言うことは正しいことなのでしょうか?命が平等であるかどうかを論じる前にいくつか整理しておかないといけない点があります。それは、

1.
人間は他の命を犠牲にして生きていく動物である
2.
人間はものごとに価値づけをする動物である
3.
人間は他の生物を見てかわいそうと感じる動物である

 などです。1番については別の項で書いています。

 2番目はすでに述べてきたとおりですが、自分の都合のいいように物事を解釈して、魚は人間の食料であり、クジラはかわいい動物だなどと、
人間の視点からの解釈をしていくものです。ここでの一番の問題は、自分が感じたことを絶対的な価値と勘違いすることです。

 3番は人間の
感情という特性の問題です。人間は知性を発達させることにより、愛情というものを、社会形成のための手段のひとつとして持ちましたその愛情が人間以外の他の種に対して向けられることにより、そういった感情が生まれるのだと思います。

 そして、自分が抱く感情はその対象への価値づけに反映され、鳥はかわいく保護すべき対象であり、ミルワームはエサとしても構わない存在である、という価値づけになっていくのです。

 「生命が尊い」ということが常識となっている現代では、それを根っこから掘り出して考え直そうとする行為は変人のする行為であり、それこそ常識はずれなことだと思われるかもしれません。しかし、そこに誤謬が含まれていないかどうかは、もう一度根っこから見直し、考え直してみなければ分かりません。

 根っこから考えるということは、
どうやって命が尊いと言われるようになったかを考えることと、なぜ「命が尊い」ということをみんなが正しいと考えているのか、を考えることです。そして、それを把握したあとで、命の尊さというものをどう考えていったらいいのか、どう定義していったらいいのかということが分かってくると思います。


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