「命の大切さ」について考えてきたことの、今のところの総括です。
ご感想、心よりお待ちしています。
「命の大切さ」を取り戻すために
「
命の大切さを取り戻すためには、まず“高い価値を持つ命”という考え方を捨てなければならない
」
上の文章は、命の大切さについてのパラドックスです。一見矛盾しているように見えて、実はこれから書くことの核心をついています。
「人の命が高い価値を持つという前提が崩れたら、こども達に命を大切にすることの根拠が言えなくなるではないか」、と“常識的”な人は考えると思います。
しかし、違います。
人の命に価値があるかということと、命を大切に感じることは関係のない、次元の違う話
です。
価値を根拠とする、義務としての「命の大切さ」として捉えている限り、本当に命を大切とする考え方はできません。
「価値があるものは大切にしなければならない」と言うことは「
価値のないものは大切にしないでいい
」と言っていることと同じです。
そして、大切にするかどうかを“価値”で判断するということは、
命そのものではなく、その存在につけられた“価値”ゆえに大切にしようとしている
ということです(
「ヒューマニズムで命を大切に扱えるか」
)。
本当の「命の大切さ」は命そのものを自分の心で大切に感じるものであるはずです。
先のパラドックスが“常識”へと昇華することができたとしたら、それは「義務」による命の大切さから、「願望」による命の大切さへとパラダイム・シフトができたということです。
人が“まがいもの”ではない「命の大切さ」を取り戻すためにはどう考えていけばいいのか、それを考えていきます。
1.
今、揺らいでいる「命の大切さ」
まず、今なぜ命の大切さが揺らいでいるのかを考えてみます。
要因としては、昔の自然に囲まれた生活から無機質な暮らしになってしまったからとか、生き物との交流が減ってしまったからなど様々なことが言われています。
しかし、命の大切さが揺らいでいる根源は、「
最初の前提に無理があり、そのために誤謬と欺瞞を多く含んだものとなっていた
」ということであると思います。まず、
スタート地点に問題がある
のです。
今の「命の大切さ」は
ヒューマニズム
を基礎にした“
絶対的価値
”と結びつけて考えられています。
「人の命は高い価値を持っている。高い価値を持つものは大切にしなければならない。」という理屈です。
今の「命の大切さ」の前提となっている
“絶対的価値”に対しての信頼が揺らいでしまえば、それを土台としている「命の大切さ」も揺らぐ
ことになります。
今、命の大切さが揺らいでいるのは、今まで正しいと信じられてきた世界観や価値観がその信憑性を疑われているからです。
今しなければならないことは、
今の「命の大切さ」を、批判を許さずに受け入れさせるよう“教育”を強化ことではありません
。
「欺瞞を含んでいようが自分達が幸せにうまくやっていければいいじゃないか」ではありません。
欺瞞の上に築かれた心の安らぎなどに意味はありません
。
それが
いびつであるのなら、いびつな部分を直して次の世代に引き渡すことが今という時代を生きる僕達の役目
です。
2.
「命の大切さ」のねっこ
ほとんどの人は「なぜ命が大切なのか」ということはあまり意識したことがないと思います。
あまりにも当たり前と思われていて、疑うまでもないことだとされている
からです。
しかし、“命の大切さを知らない”人間は「命の大切さ」を当たり前と思っていません。「
判断と行動の基準が“常識的”な人とは異なっている
」と言ってもいいかも知れません。
そういう人間に単純に「命は大切なのだということを知れ」と言ったところで理解してはもらえません。
命の大切さを“まぎれもなく正しい疑う必要もないもの”と信仰し、絶対の真理として教えようとする人間は、他の人から「なぜ?」と聞かれてもおそらく答えることができません。
なぜなら
疑うことをしないということは「
その思考がなぜ成り立っているか
」
は考えない
ということだからです。
“常識的”な人は「命はとにかく大切なものであり、大切にしなければならない」と言います。それが“常識”だからです。それを信じられない人間は“非常識”だから信じられない、おかしな人間だと考えます。
しかし、正しいものだと“信仰”している人たちがなぜそう信じているかといえば、その理由はその考えを
「
正しいものとして教えられたから
」
です。
それは、
もし違う“常識”を“正しいもの”として教えられていたら、それを「これこそが真理だ」と主張していたであろう
ということです(
「常識すなわち真理ではない」
)。
根っこまで深く自分の頭で考えることをしない人間は、その考え方に含まれる欺瞞にも気づくことはありません
。
根っこまで考えたことのない人間が「命の大切さ」を教えようとしても、そんな話に信憑性がないのは当たり前です。
かといって、「命の大切さ」の理由を説明するのもなかなか大変なことです。
現在は、その理由としてとして、
宗教的な答え
と
思想的な答え
の2種類がまず考えられると思います。
ここでは宗教には触れません。今の主流を成している思想的な面での話を考えていきます。
現在、命の大切さの根拠とされているのは、
ヒューマニズムを基礎とした
“
命の価値の高さ
”の概念
です。
近代ヒューマニズムはもともとはキリスト教から生まれた考え方ですが、近代ヒューマニズム成立以前の
「特別な存在である神に与えられた特別な存在」という設定を変更して、「それ自身で特別な存在」ということにしてしまったものです
(「
ヒューマニズムのこれまでの流れ
」)。
ヒューマニズムは人間に最低限度の生を送るための大きな力となります。しかし、ヒューマニズムは強力である一方、欺瞞をも含んでいる考え方でもあります(
「ヒューマニズムへの問題提起」
)。
3.
「命の大切さ」のパラダイム・シフト
命の大切さは
“絶対的な価値”の信憑性の低下と共に揺らいでいます
。かといって“絶対的な価値”を信じることを強要しても、問題の根本的な解決にはなりません。
「とにかく命は大切なんだ。疑問を持ったりせず、“正しいこと”として受け入れろ。」と迫ることは
教育ではなく洗脳でしかありません
。またそれは
思考の放棄
を迫ることに他なりません。
「命の大切さ」を説いたとしても、欺瞞や矛盾を感じるなら、信憑性は低くなります。
もう一度最初から、“絶対的な価値”をもとに「命の大切さ」を語ることについて考え直さなければなりません。
「命の大切さ」を語るうえで、現在の考え方の軸となっているのは“
価値
”というものさしです。まず、“価値”をものさしにしていることについて考え直さなければなりません。
“価値”は人間が考え出した概念であり、人間の頭の中にだけあるものです。人間が考えたものである以上、
絶対的真理ではあり得ません
(「
「命には高い価値がある」と言い切れるか」
)。
“
命がそれ自体持つ高い価値
”は、おそらく
人間の持つロマンチックな幻想
です。
「価値があるから大切にしよう」という言葉は、
人間は存在するものについての価値づけを判断することができ、かつその価値づけは正しい
と考えているということを意味しています。
「全ての命は高い価値を持つ」という言葉も、意図していないにしろ
人間の知性を過信しており、傲慢さを内に秘めている
考え方です。
世界や自分たちの存在に対して、そろそろ人間は考え方をあらためるべきではないかと思います。
今までは人間は自分達のことを“
特別な存在
”であると前提し、世界観や価値観を創り出してきました。
人間が世界の中に数多く存在する生命の中のひとつであるならば、その人間に
世界に存在するものへの価値づけをすることはできません
。
人間の持つ知性は
ヒトという種が持つ特徴の内のうちのひとつ
です。
絶対的なものではなく、「
他の種と比べると知性が高いように見える
」という相対的、主観的なものです
。
「
人間は特別な存在ではなく、全ての存在の中の一部にすぎない
」という前提にあらためないと、傲慢さや欺瞞を含まない考え方はできません
。
自分達が特別な存在であるという考えを破棄することは「
すばらしい世界の中で、高い価値を持つ人間が、自分達に特別に与えられた“生きる権利”を行使する
」という世界観から「
不確実な世界の中で、不完全な人間が、それでも精一杯生きていく
」という世界観へと転換するということです。
自分達の生と命を、唯一正しい“絶対的真理”と結びつけて考えるのではなく、
等身大の自分の「
生き様
」の問題
として捉えるということです。
自分達を特別でないと認めることは自尊心を傷つけ、よって立つべきものを失わせます。
しかし、フィクションの上に欺瞞を築き、中身のない空論の上に自尊心を埋めるよりは、よほど人間らしいと思います。
世界観にすでに多くの誤謬と欺瞞が入り込んでいるのなら、そこから導き出される生き方もいびつなものでしかあり得ません。
フィクションはフィクションと認め
、
自分達が特別ではないとした前提
にあらためなければなりません(
「フィクションをフィクションと認めた上で」
)。
今の「命の大切さ」は、
フィクションの上に成り立っています
。
そして“人の命が特別に持つ高い価値”が
フィクションであることを認めると、今の生命観・倫理観は成り立たなくなります
。
だから、その土台が揺らぎ始めると「これが正しいんだ。みんな疑わずに信じろ」と言っているのです。
殺人事件があるたびに大人達は「命の大切さを教えよう」と叫びます。
しかし、
土台の崩れかけたフィクションを思考を放棄させることによって“信仰”させようとしても無意味
です。
「命の大切さ」が揺らぐ今、僕達がしなければならないことは
より誤謬と欺瞞のない「命の大切さ」へと作り替える
ことです。
誤謬と欺瞞を生み出すことなく語ろうとするなら、その最低条件は
1.
主観は主観のままおいておく
2.
絶対的真理には触れない
3.
命への価値づけを必要とさせない
というあたりだと思います。
「命の大切さ」は
社会の生命観・倫理観の基礎
を成すものです。生命の安全が脅かされ、互いに傷つけあって平気でいるような社会には誰も住みたくありません。
社会に暮らす人がより良い生を送れるようにするためには、命は大切に扱われなければなりません。
しかし、一方で命を“価値が高く、大切にしなければならないもの”として語ろうとすると欺瞞を生み出してしまいます。
「命の大切さ」を
義務として語ろうとするなら、根拠が必要
となってしまいます。
根拠を創ろうとすれば、必ず誤謬と欺瞞が生じます
。
誤謬と欺瞞は「命の大切さ」を義務として語るところから生み出されています
。
なぜ義務として“大切にしなければならない”のかと言えば、
義務として受け入れさせないと命を大切にすることができない
からです。
それは
人間社会と価値観がまだ未成熟である
ということに他なりません。本当の倫理観は「命を大切にする」ということを、主体として、喜びを持って行えるようなものでなければいけません。
命の大切さを心から信じられるようになるためには、欺瞞を感じなくてすむような語り口で語りなおさなければなりません。
「人間の理性により、人間はすばらしい世界へと向かって確実に前進している」という“
大きな物語
”はすでに失われました。しかし、命の価値に対しては人間は保守的であり、“命に関しての大きな物語”を手放そうとはしていません。
語りえる範囲で語るべきであり、語り得ないことを語ろうとするのは間違い
です。
命に高い価値があるかどうかは人間に語れることではありません。「価値がある」ということも「価値がない」ということも、人間には語ることのできない範囲のことです。
根拠を必要とする語り口ではなく、
根拠のいらない語り口
で「命の大切さ」を語らなくてはいけません。
そのためには、
「
なぜ命は大切なのか
」という問い方ではなく、「
なぜ人は命を大切なものと考えるのか
」という問いとして考え直さなければなりません
。
「命を大切なものと考える」ことの理由は、人間は「
精一杯生きていたい
」「
愛する人に生きて欲しい
」という「
生への願望
」を持っているからです。
その「生への願望」を叶えるために、人は互いの生を、命を、大切にしあうのです。
「生への願望」を大切にするということは、
やさしさや思いやりといった自分の人間性を大切にする行為
です(
「ヒューマニズムから人間性尊重主義へ」
)。
相手の存在を尊重し、命を大切にするのは
自分自身のための行為
です。
「生への願望」をもとにして「命の大切さ」を語るということは“価値”を軸としていた考え方を
「願望」を軸とした考え方に転換する
ということです。
それは根拠を必要とする「義務」としての命の大切さから、「
願望を源泉とする命の大切さ
」へとパラダイムをシフトさせるということです。
“価値”を人間社会の中でしか通用しない人間独自のものと前提すると、今までの「命の大切さ」は根底から成り立たなくなります
。
前提が替わっても成立し、誤謬も欺瞞も含まない「命の大切さ」として成り立たせようと思うなら、パラダイムをシフトさせるしかありません。
それは
「
大切にしないといけないから大切にする
」という考えから、「
大切にしたいから大切にする
」という考え方への移行
です。
願望を源泉として、「
大切にしたいから大切にする
」と言うとき、そこには誤謬も欺瞞も生み出されません。矛盾もなく、根拠も必要ではありません。
絶対的真理は必要ではありませんが、まるきり否定しているわけではありません。真理はあってもなくても良いのです。あると思えばあると信じればいいし、ないと思えばそれでも良いのです。願望を源泉とするということは
真実がどうであれ通用する論理とする
ということです。
“人間に特別に与えられた高い価値”を前提とするヒューマニズムの思想は、
人が「大切にしたいと思って大切にしあえる」段階にたどり着けたなら過去の遺産となるべき
考え方です。義務としてしか「大切さ」を語ることができないのは、
人間性のレベルが低い
からに他なりません。
自分達に高い価値づけをしないと大切にすることができない、そんな理屈はおかしいと思います。
大切なのは
相手を愛しい、大切にしたいと感じ、考える心
です。
4.
社会のルールとして
これまで述べてきたことは、人間社会の枠組みを超えた“絶対的真理”とともに考えたものです。
絶対的真理としての「命の大切さ」は想定できない一方で、
人間社会の枠組みの中では
、やはり「命を大切にすること」は義務としてうけとめられなければならないと思います。
人間が自らの“絶対的な高い価値”を主張することには賛同できませんが、社会の枠組みの中では社会に暮らす他の構成員の命を大切にするのは義務とされなければなりません。
なぜなら、社会は
人間が生活環境をうまく乗り切っていくための枠組み
であると同時に、
その中で生きる個々の人間がより良い生を送っていけるように手助けをする役目も持っている
からです。
それぞれの個々人は「
生への願望
」を持っています。
より良い生を送る手助けをするということは、個々人が持つ「生への願望」が叶えられるように手助けをするということです。
社会の中で生きる以上は、まず他人の持つ「生への願望」を踏みにじらないようにしなければなりません
。
「他人が持つ生への願望を尊重する」ことは、
社会の中で生きる上での最低限のルール
です(
「なぜ人を殺してはいけないか、ふたたび」
)。
全ての人は潜在的に「生への願望」を持っています。その願望を尊重しあうために、互いの存在を大切にしあうのです(
「生きていたいという思い、生きて欲しいという思い」
)。
他人の「生への願望」を踏みにじる人間は、社会の構成員とは呼べません
。
そんな人間には社会の中で生きる権利はありません
(
「「人でなし」に生きる権利は必要か」
)。
人の命が大切にされなければならないのは、「人の命が高い価値を持っている」からではなく、「
互いを大切にしあう社会に暮らしている
」からです。
「人は人であるがゆえに、“絶対的な真理”として生きる権利を持っている」のではなく、人は「
お互いに精一杯生きていたいと願っており、
その願いを叶えるために、社会のルールとしての「生きる権利」を創りだした
」のです(
「人権」というよりは「社会の中での生存権」
)。
「人は人であるがゆえに“生きる権利”を持っていて当たり前だ」と思ってはいけません。
“価値”は人間同士でのみ通じる人間だけの概念
です。
命という人間の概念の及ばないものに対して人の言う“価値”が当てはまると思うのは間違い
です。
命の存在は人間がこの世界に誕生するはるか前から続いてきたものです。人間が絶滅してこの世から消え去ったとしてもずっと続いていくものです(
「地球と生命の誕生と進化」
)。
人間は、
自分達の価値観とは全く関係なく存在するものを観察して、自分達の価値観を元にして、勝手な価値づけをしている
のです。
「人間以前に誕生した命にも、人間以外に存在する命にもあまり価値はないが、人間だけには高い価値がある」と考えるのはあまりに傲慢でありナンセンスです。
世界を人間の価値観によって価値づけするところから生まれるのは、いびつな世界観です。いびつな世界観から、まっとうな考え方は生まれません。
まず捨て去るべきは、自分たちの存在に対しての特別意識であり、「自分達は命に対しての絶対的な価値を判断することができる」という考えです
。
人は
人間同士でのみしか通じないはずの“価値”の概念が絶対的なものであると信じ、「命の大切さ」を“価値”の軸で捉えようとしました
。
今、「命の大切さ」は揺らいでいます。
まず、
前提と世界観、スタート地点が間違っていた
のです。
誤解を恐れずに言うならば、「命は大切」なのではありません。
「
人間は命を大切だと思っている
」のです。
「命の大切さ」はあって当たり前のものではありません。
人間が長い歴史の積み重ねの中で築き上げてきた、人間社会の財産
なのです。
命の大切さを考えるには、「なぜ命は大切なのか」ではなく、「
なぜ人間は命を大切だと考えるのか
」という角度でなければなりません。
その答えは「
人間は「生への願望」を持っているから
」というものであると思います。
ならば、その願望を叶えあうように努力をしなければなりません。
こども達に対してしなければならないのは、
「命の大切さ」を無批判に“信仰”させることではなく、「相手を大切に感じる」心を育てさせること
です(
「命の大切さを教えるということ」
)。
お互いの命を「大切にしたい」と感じ合い、願望を源泉として大切にしあえるようになった状態が、まがいものでない「命の大切さ」を人間が取り戻せた状態である
と思います。
一番の問題は、ヒトという種がお互いを本当に大切に感じあえるだけの人間性を持ちうるのか、平たく言えば「
人間はそれだけのポテンシャルを持っているのか
」という問題になってくるかも知れません。
自分達のエゴと利己を主張しあい、欺瞞と偽善を語りながら、一方で血を流しあい殺しあっているのを見ると、人間という存在に対して暗澹たる思いを持たずにはいられません。
しかし、僕達はより良い未来をつくりだすために努力をしていかなければなりません。
それは自分達のためにではなく、
この世界を引き継いでいく自分達のこども達のため
です。
僕達の先人が努力し、築き上げたものを僕達に引き渡してくれたように、僕達は僕達にできることをして、それをこども達に引き継がせなければならない
のです。
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