宗教的なことを述べるのが目的ではありません。歴史・宗教・宇宙科学を交えた現時点での考察です。

自分とは、世界とは、生きるとは、


 自分とは何か、世界とはどういうものか、人はどう生きていけばいいのか。この3つの疑問は大昔から人間が思ってきたものです。そのような疑問を持たせたのは、生命誕生から38億年の間に発達した知能、特に「想像/創造する」ということを可能にするまで肥大した大脳皮質です。
 本能に従い、食べ生殖を行う行為が生きることの全てではなくなり、ヒトは発達した大脳を用い、考えるということをし始めました。最初は危険から逃れ、効率的に獲物を捕るために使われた知性は、しだいに
自分自身の存在の意味と自分を包む世界への疑問に向けられていったのだと思います。

 人間はその答えを求め続けました。昔の人たちは宗教的な概念でその答えを出そうとしました。初めはアニミズムや素朴な多神教から始まったと思われますが、そのうちの一部の地域から一神教が生まれました。
 宗教により世界観は違いますが、一神教の概念では神様がこの世界を作り、世界を人間に与えたとされています。
祈りによる神との関係回復もしくは規律に則った正しい生活により、最後の審判へ備えるという事が説かれています。
 一方、仏教では世界は世界であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
輪廻からの解脱(苦しみの世界からの開放)ということが目標であり、いかに生きるかということに主眼が置かれています。

 今は一神教から生まれた科学が宗教に変わって世界(宇宙)と人間(生命)への問いに答えようとしています。神のみわざを表すという目的から始められた科学は当初の予想と違った世界を人間に示し始めました。
 宇宙本来の姿に対する情報がもたらされるにつれ、かつて主流(一神教の世界では絶対)だった人間中心の世界観はくずれかけています。世界は人間のためにあり、何をしてもそれは人間に与えられた権利であるという考え方は見直され、今のままでは人間社会を支える
環境自体がもたないという広い視野をもてるように徐々になってきました。

 生命が誕生して以来時代の流れ、環境の変遷を経て無数の種が絶滅しています。誤解を恐れずに言うならば、いずれ人類も次の種へ代を譲り渡すことは避けられません。しかし、外的要因以外に内的要因によって絶滅の可能性があることは事実です。
 そしてその危険は主に人間の思い上がりとエゴによってもたらされています。地球が今まで積み上げてきたものを消費することによって今の文明の繁栄がもたらされています。
 今までは全てのものは人間のために作られていると信じられていました。しかし、事実は
今までの積み重ねがあり、その結果として人間が登場し繁栄を迎えたと言えるようです。はるか数億年前、テチス海に沈んだ生き物たちは人間に石油を残すために沈んだわけではありません。
 
それぞれの存在は一見無関係なようで、相互に影響を及ぼしあいながらバランスが保たれています。ひとつを壊すとその影響はいろんなところに及んでいきます。かつては環境の修復機能の範囲でおさまっていましたが、今では人間の影響力は計り知れないところまで来ています。

 科学によってもたらされた情報により、世界(この地球)が奇跡と言えるほどの偶然によって生命を作り出したという見方に移ってきています。そしてかつて信じられていた人間が唯一絶対の優れた存在というよりも、偶然が重なって知性を持つにいたり地球上の覇権を手にしたというのが事実に近いようです(分かっていないことも多いですが)。もう一度地球の誕生から同じ条件で生命を誕生させたとしても、同じように人間が誕生してくる可能性は皆無に近いといわれています。
 人間は自分自身を考える過程で存在の意味を探したと言うよりは
自分自身に意味づけをしようとしたといった方がいいかもしれません。偶然の中で生まれた世界の中で偶然に生まれた人間ならば、宇宙の中での絶対的な価値は不確かなものとなります。
 絶対的なものを人間自らが定義し、本来の姿を見誤るならば、それは破滅への階段を上っていく行為なのかも知れません。

 この宇宙には無数の恒星と、その惑星があります。宇宙のどこかにはまるきり形態の違う生命(生命の定義にすら当てはまらないような)や、人間の想像の及びもつかないような知性というものもあるのかも知れません。

 今までは情報が足りないために想像でしか自分と世界を伺うことが出来ませんでした。全部が正しいとは言い切れないにしろ、世界(宇宙)の本来の姿が分かってきたうえでは、
人のために全てがあるといった人間中心の考えは捨てるべきだと思います。ダーウィンの弁護士もいっています。「優れた知性を真理を覆い隠し真実を見えなくさせるために用いてはいけない」、と。

 3つめの問いへの答えもかつては宗教が担っていました。神のお心に沿って生きろ、うんぬんです。仏教ではカルマをあげること、もしくは悟りの境地あるいは浄土に行くことなのでまた別個ですが。
 今の科学が提示している情報をそのまま受け止めると、絶対的なものはない、どう生きるかなんて決められてない、ということでしょうか(DNAに書き込まれているかは不明ですが)。
人からどう生きろと言われるのでなく、自分で考え決めなければならない分その方が大変です
 しかしやはり、どう生きるべきかは個人でそれぞれ考えていくしかないと思います。産まれてきたことに意味があるかどうか悩むよりも、
産まれてきた事実を受け止めてその生を有意義に活かすことに考えを向ける方が前向きだと思います。

 社会の中で生きるということに関していえば自分を活かすことによって人の役に立つ人間になることだということもできますが、それはあくまでも人間の知性で創りだされた概念です。ピンとくる人はそれでいいですが、全ての人にしっくり来るわけではないでしょう。
 また、生の目的は種の生存範囲と生存数を拡げることへの貢献にあると言われても感動する人はいないでしょう。

 
答えを求め、それを創り出す、それ自体が生きると言うことなのかも知れません。もし生きることに意味があるのかと問われたならば、僕は産まれてきたこと自体に対して意味はないのかも知れない、しかし、生きていくことの意味は自分で創ることが出来ると答えます。
 自分の人生に意味があるか、それはその人次第です。自分の人生の意味は自分で創るしかないと思います。


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