「人権」というよりは「社会の中での生存権」
なぜ先人達は
人権
という概念を創造し、「
人はみな生まれながらに生きる権利を有する
」というかんがえを持つに至ったのでしょうか。
それは
不平等がまかり通る世の中で、搾取され踏みにじられる、精一杯生きることも許されず、生きていたいと願っても生きることすらできない人たちがたくさんいた
からです。
人権というものを通して、
支配される人たちは支配する人たちに向かい、自分たちも生きていたい、自分の子供達に精一杯生きて欲しいという思いをぶつけた
のです。
たくさんの犠牲を払いながら、人権を認める社会においては全ての人が等しく同じ人間として生きる権利があるという時代になりました。
人権の思想は社会にすむ人が生命と安全を保証されながら自分らしさを追い求めて生きることに大きく貢献しています。
ただ、
1.人は多くの生命の中のひとつに過ぎず、人の概念は人が生み出す人固有のものである。
2.人および人間社会を絶対的なものと見なし、それ以外を顧みない行為は自然と人自身に対する知識が深まると共に反省されてきている。
ということを考えると、否定するつもりは毛頭無くとも、人権という概念をもう一度見直してみる必要がありそうです。
人は社会という特殊な枠組みを創り、その中でいろいろなルールを定めて生きています。
ルールがなくお互いに好き勝手をするだけならば、それは社会とは呼べません。これだけ組織的に個々人がつながりあい、相互に影響を及ぼし合って存在している以上、ルール無しでは共存しながら生活することはできません。
またお互いが違うルールを主張しあって行動するならば、言い争いのもとになり共同生活を送ることはできません。
したがって、
お互いの納得できるルールの元で、ルールに則って生きるということを守らなくてはなりません
。
人権とは「
お互いの存在を認め合い尊重しあい、生命と財産を保証しあって、社会で生きる人が互いに人間らしく精一杯生きられるようにしあいましょう
」ということです。
それは人が生まれつき絶対的に持っているものではなく、ルールとして定められている社会において通じる概念です。
それでは個人の人権を踏みにじる国家があるときに、それはその国家の自由だということになるかと言えば、そうではありません。
国家ひとつひとつはより大きな人間社会というものに属しており
、現在の世界においては地球上の国家はその社会の中の個人に対して生きる権利を保障するようにしましょう、という流れになっているからです。
権利を与えるのは個人が属する社会です。しかし、社会を形成するのはひとりひとりの個々人です。
人権が創られる以前の社会は特定の支配層の利益と快楽のためにその他多数の被支配層の人たちが存在する構造でした。
今の社会はそうではあり得ません。
生命と財産を保証され、生きる喜びを得るべきはその社会に属する全ての人間
です。
一人ひとりは誰かに搾取され踏みにじられるために存在するのではありません。
自分たちそれぞれが自分の人生の主役として生きて行くべく存在している
のです。
人権は社会にすむ一人ひとりが幸せに生きていけるためにあるものです。ただ、それは人間社会の中でのみ通用するものであり、
絶対的な裏付けを持つものではありません
。
みんなが大切にすべきルールとして僕達自身が常にそれはどうあるべきかを話し合い、磨き続けていかなければいけない
ものです。
人には生きる権利があるのが当たり前だと思うのは間違い
です。
人権の概念が創られるまでにとても長い時間がかかってきており、たくさんの犠牲が払われて今僕達が享受しているものだからです。
あくまでもそれはたくさんの人の努力の元に先人が創りだし、僕達に残してくれたものであり、人類にとってのひとつの財産です。
一方、自然を含む世界の中で
人権を絶対的なものと主張することには無理があります
。「人には生きる権利がある」ということには
「人だけが世界で特別である」という前提を必要
とします。
人が特別でない存在であるならば、人権自体の定義づけに無理があります。
もともと一神教の世界観で「
人は特別な存在と特別な関係を持つが故に人は特別だ
」と言っていたものを、近代的ヒューマニズムの概念によって「
人はそれ自体が価値のある特別な存在だ
」となった考えが基礎にあります。
前提自体が崩壊しかけているならば、人権の持つ言葉の輝きも当然かすみをおびたものになってしまいます。
「なぜ人を人を殺してはいけないか」、それが分からない子供が増えてきていることと大きな関係があると思います。生み出されるものは
命に対する無価値感
です。
生命に対する価値観、人間に対する価値観を僕達はもう一度考え直すべき時に来ているのだと思います
。
それなしに見える未来は生に対するむなしさと倫理観の喪失です。
誤謬をできるだけ生まない世界観の元で定義づけをしようとするならば、
人権が創られた原点
に戻ってみる必要がありそうです。
誤謬で誤謬を繕っても、新しい誤謬が生みだされるだけで生を尊ぶ気持ちは薄れていきます。
「人権」は言い直すなら「
社会の中での生存を許される権利
」のことです。権利の部分を正しく言えば、
社会の構成員同士が同意して参加するルールのもとでの許された行動
です。
権利を享受するためにはルールに参加することが必要です。
ルールを守った人のみが権利を得ることができます
。
それを定型化すると、
1.生きていたいと思うもの、生きて欲しいと思われるものは、
2.構成員として所属する社会において、
3.存在を尊重され、充実した生を追求できる。
です。
この考えのポイントは、権利の拠り所を絶対的存在や人間の内部自身でなく
主体としての人間の願望自体
においたことと、
社会の中だけで通じるルール
と定義すること、それと人間社会が構成員に与えるものということから
構成員は人間だけに限らない
ことです。
なぜ人権が創られたか。それは
願望があった
からです。ただ、
願望に過ぎないものを絶対的な真理と定義することは誤謬を生み出します
。
願望は願望のまま置いておいて、そのためにみんなで創るルールという形にすれば誤謬は生まれません
。
社会は人の想いを形にする場所
であり、思いを持つ人がいるならば
それが叶えられるよう努力していく
ことが必要です。その努力を繰り返すことによって、子供達により良い社会を財産として残していくことができるのです。
上の定型文は今の社会の問題のいくつかにひとつの回答を与え、新しい可能性を生み出し得ます。
それはまた次のコラムで。
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