常識すなわち真理ではない
常識だと思っているものでも、それは「
みんなが正しいものだと信じていることによって成り立っている普遍的な認識
」であり、
普遍的に通用する主観的な意見
です。それは「正しいこと」ではなく、「
正しいと思われていること
」です。
常識が常識として通用するのは、それがも
のごとに対しての筋道の立ったそれなりの説明を与えており、その通りに行動すればそれなりによい結果に結びつくことが多いから
です。常識に基づいた行動を取ることは、ある状況に対して人間が思い悩むことなく、より効果的にその問題を解決していくための方法を提供します。それは洞察や経験の積み重ねによって得られたものであり、判断と行動に一定のパターンをつくることは社会がその生活環境により効率的に適応することを可能にします。常識というのは
人間社会がより高い確率で存続していくための武器となるものだ
と言い換えることもできます。
だから、砂漠地帯の社会では水を大切にするということが常識であり、農耕社会ではみんなで仲良くするということが常識であったりするのです。社会により常識が異なるということは、
その地域を取り巻く生活環境が異なるため、問題とすべき事や大切とされるべき事も違ったものになり、ものごとに対しての価値づけや理想とされる生き方も変わってくる
ということです。
常識を考える上で一番大切なことは、
何のためにその常識が生み出されたのか
ということです。一見すると不可解に見えるような常識でも、その
常識が生み出された時点では、生活環境に適応しながら効率的に生きていくためのものとして役だっていた
と想像されます。
浄土系以外の仏教で死に装束に守り刀を持たせたりするのも、外国人などが見れば不可解に見えるのでしょうが、それはその教義を信じている人の中では常識として通用するものです。それは四十九日の死出の旅の途中で身を守るという目的のために理にかなった手段であるからです。
ひとつの社会において常識とされているものでも、外から見ると常識とはうつらない場合もあります。同じ仏教においても、浄土真宗では四十九日の旅はなく、死んだらすぐに浄土に旅立てるとされています。旅をする必要がない以上、守り刀を持つ意味はなく、守り刀を持たせることは常識ではありません。しかし、その常識自体もそのまた外部から見れば不可解な話に聞こえるのだと思います。あえてより小さな枠組みの中での話をしましたが、もっと大きな社会においても同じ事が行われています。
国レベルでも、常識とされているものは無意識のうちに僕達の心に入り込んでいます。問題は、
その枠組みの中にいて生活していると、自分の思考に入り込んでいる常識の存在に気づく事ができない
ということです。人は生きる上で社会を形成しますが、人は
社会の価値観の影響を知らないうちに受けています
。社会の中に生まれてくる人たちは、すでに常識となった思考を持つ人たちによってものごとの考え方を教わり、その思考をまた常識として次の世代に伝えていくのです。
常識を信じることが悪いことだとは言えません。社会が円滑に動くための常識を持つことは社会にとってもその中に暮らす人々にとっても有益だと思います。
常識に則って生活することは、個人にとっても一から自分で判断基準・行動基準を築かなくても、一定水準以上の行動を取ることを可能にしてくれる
からです。
ただ、注意しないといけないのは、
常識=社会に暮らす大多数の人の共通した価値観であって、正しい真理であるかというとそうとは言えない
ということです。それが価値観として役に立つのは、
問題点を効率よく解決するものとして、目的と手段を内在させる
ものだからです。いい常識は人間にとって有益であり、実生活で役に立っているものです。
古い時代につくられた常識の中には、
時代背景が変化して役に立たなくなってしまっているのにそのまま形だけが残っていたり、目的の部分がすっぽり抜け落ちてしまい手段の部分だけが残ってしまっている
ものもあります。何のためかはよく分からないけれど、昔からしているので風習として残っているというようなものがそうです。文化としての側面を考えると否定はしませんが、それが今実際に生きている人たちに負担を与えたりするようになっているなら、もう一度
その常識が常識として通用させるべきかどうかを考え直す
ことは必要だと思います。
良い常識はその中に理念を含む
ものです。そしてその理念を正しく理解することは自律する主体として個人が生きていくために有益なことだと思います。赤信号で止まらないといけないのは常識だからそうしないといけないのではなく、そうすることが交通事故を減らすための具体策として働くものであり、個人にとっても社会にとっても有益であるからです。
常識は常に正しいとは限らず、また時代によって社会によって変わります
。常識を全て否定する必要はありませんが、かといって無条件に受け入れることはより人間らしいことであるとは思えません。常識は人の価値観によって生み出されるものであり、それを絶対的なものとして信じることは誤りです。
常識だからという理由で相手に押しつけるのは立派な洗脳です
。何かを教えるときにいちいちその理由から教えるということは労力的にも精神的にも負担がかかるので、理由を聞かれたときにはつい「常識だから」と答えてしまうのですが、常識にはそれなりの理由があるということを考え、その常識が社会にとって有益なものか、それとも改善すべき点があるかを考えていくことが望ましいと思います。
常識は「なぜそうなのか?」という思索があって、本人に理解・納得されてこそ、自律的に守られる良識へと昇華される
のです。常識に含まれる精神は、どの社会でも人が人である限り理解しようと努めれば、たいがいは理解できるものだと思います。
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