これこそが正しいと言う人は


 絶対に正しい価値観はなく、絶対に正しい理論もありません。価値観は時代が変われば変化しますし、人間の価値観自体が人間の知性に依存する以上、どうしても限界のあるものです。
 自分が物事をこうだと思っていても、別の見方をすれば違う見え方がして当然です。言葉自体が物事を説明するためのメタ言語でしかないため、ある物事をうまく説明できたとしてもそれは言葉で表記できたと言うことに過ぎず、
本当の物事そのものとはまた別個のものです。
 科学で世界の摂理がより説明できるようになってはいますが、
いま分かっていることが物事の全てというわけではありません。また新しい発見がなされれば、科学の体系ががらっと変わってしまう可能性も否定はできません。

 自分にとってはっきりと言えることは「自分はこう思っている」ということだけです。
考えていることの全てが真実だとは限らないですし、またそう思ってはいけないのだと思います。
 
自分が考えていることを自明の真理と見なし、自分以外のものに当てはめていくことは誤謬を生み出す元だからです。

 
自分の理解しうる事柄には限界があるという認識を持っておくことは大切だと思います。
 自分たちは特別であり、自分たちの知性は絶対だという考え方は逆に危険だと思います。人間がそれほど絶対的な存在であるとは考えられません。

 人間は自分たちが信じよりどころにしている価値観を絶対的なものだとしばしば思いたがります。ですがもしかするとその絶対で唯一と
思うこと自体が落とし穴なのかも知れません。
 
絶対的でない知性から生み出されたものを絶対的なものだと認識し、それを崇めることは誤謬を信仰すると言うことを意味しています。固定され、批判を許さなくなった世界観と目標を振りかざすことは自分たちの行く末をも危うくするかも知れません。

 進化論などで、「正しいと限らないのだから教科書にこれが正しいとは限りませんとの記述をしろ」と求めている人たちがいるのはもっともなことです。
 
自分たちが信じているものが正しいとは限らず、常に省みる必要があるからです。従って、そう言っている人たちが信じている本にも「この本に書いてあることが正しいとは限りません」と記述した方がいいと思います(皮肉を含む)。

 イデオロギーについても同様です。唯一絶対の幸せになる方法はありません。それぞれの考え方があり、それぞれの生き方があります。
 
自分の持つイデオロギーを唯一絶対のものとして振りかざし、それに従わない人間に正義と称して暴力をふるう人たちは、他の人たちにとっては迷惑なだけです。

 唯一絶対のものを探し求めるよりも、そんなものは無いと思った方がむしろ楽に生きられると思います。いろんな考え方、生き方をする人があり、どれが一番と言うことはないのです。大切なことは自分に対して、他人に対して誠実に生きていられるかどうか、それにより自分らしく幸福感を感じて生きていけるかどうかです。

 固定された世界観・目的・手段を押しつけることは教育ではなく洗脳です。
これこそがすばらしく、唯一絶対でそれ以外に意味はないと考えている人は、その価値観自体に支配され洗脳されている人だと言えると思います。
 疑問を持つことなくある考え方を絶対的だと思える人は洗脳されやすい人だとも言えます。ある考えを絶対的なものだと強固に主張する人ほど、もし立場や境遇が変わっていれば違う考えを強固に主張していたかも知れません。
疑問を持つことなくある考えを信じるという行為はそれ自体が危険性をはらんでいます。

 自分以外の人は自分と似た意見を持つようでも少しずつ異なった考えをしています。自分と違う考えを持っているからと行って攻撃することは良いことではありません。何より、
自分が正しいと信じていることがあったとしても、それが常に正しいとも限らないのです。
 好ましい価値観は、それを省みてより良く発展していく選択肢を常に残しているものだと思います。


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