教育と洗脳の違い


 教育と洗脳との間の差はすれすれです。よかれと思ってやっていることでも実は洗脳に過ぎないこともありますし、突き詰めて考えると本当の教育とは何かという問題にもなります。

 人は社会の基礎です。ただし、
教育をしないと社会の構成員たる人間にはなりません。社会というのはこの場合多くは国家です。ということは教育を施すのは主に国家の仕事です。そこがひとつのポイントです。

 
教育というものを僕なりに定義すれば、僕達が生きる世界の姿を見せ、目指すべき目的を持たせ、目的を達成するための手段を身につけさせるということです。社会をより良くするための財産としての個人を作り上げていくということです。

 社会を運営し、改善していくために個人の能力を発揮させることは、結果として社会がより良くなっていくことにつながります。
教育は個人のためであると同時に社会のためです。

 ただ、教育が社会によってされるものである以上、
「社会のため」に都合のいい世界観や目的が優先的に教えられる可能性があります。

 教育における
洗脳を僕なりに定義すれば、「価値観のひとつを絶対的なものとみなし、それを唯一正しく、批判を許さないものとして受け入れさせる」ことです。批判をさせないということは相手に正誤の判断をさせず、思考を放棄させるということです。唯一絶対の価値観を与えられた人間は、それ以外の価値観を間違ったものであると考えるようになり、自分以外にも様々な価値観が存在するとは思わなくなります。

 一番やっかいなのは独裁者などが自分のために都合のいい世界観をつくりだしている場合です。多くの場合は現実を正しく把握することはさせず、世界観も掲げる目的も、一部の人間が作り上げたいびつなものです。

 本来リーダーは社会を導くために存在するものですが、そこでは支配者のために社会が存在するという形になり、本末転倒となっています。洗脳は支配者のためになされるのであり、その目的は支配の永続化と保身です。被支配層は支配者のために存在するのであり支配者が生きるための手段に過ぎません。特徴は
手段と目的の逆転です。

 独裁国家では外部から見ると洗脳と分かりやすいですが、自由国家とされる社会でもその要素が入り込んでいることはあると思います。

 国家はなんらかのイデオロギーを持つことが多いですが、その
イデオロギーを教え込むのは教育と洗脳のボーダーライン上にあると思います。イデオロギーは価値観のひとつであり、それは人々がより良く生きるという目的のための手段のひとつにすぎないからです。

 僕自身は自由主義者であり民主主義賛成なので勘違いして欲しくはありませんが、例として民主主義国家における教育を考えます。

 民主主義を教えるという行為も、「今までの人類の流れでこういう問題があり、現時点ではそれらの問題を概ね克服する手段として民主主義が採用されている。もちろん問題点がないわけではないが、人がより良く生きていくために、現時点では最良の社会システムのひとつだと思われる。」と教えるのであれば立派な教育です。それは現時点でのより正確な現状把握を与え、より良い社会をつくるための手段のひとつとして民主主義というイデオロギーを提示しているからです。

 それを「とにかく民主主義が一番なのだ。過去・現在違う社会システムを取るものがあるが、そいつらは間違っているのだ。」というと、それは
手段としての民主主義を目的にすり替える行為であり、その根底は洗脳と何ら変わりません。教育は国家がするものではありますが、その目的は個人が幸せに生き社会がより良くなっていくことであるべきです。けして一部の人間の利益のために成されるものであってはなりません。それはまさに、国にとっての宝物をみんなで協力して磨き上げていくということです。

 教育と洗脳の差はすれすれです。よかれと思ってやっていることでも、本質を考えるとずいぶん恐ろしいことをしているのではないかと思えることもあります。表面から見えるものに惑わされず、より正確な世界の姿を見据えながら本当に目指すべきものを見失わないように気をつけなければいけません。そのためには、
思考を放棄せず自分の頭で正しいかどうかを考えなくてはいけません

 
僕達が誰かにものごとを教えるときにも、「なぜそうと言えるのか」を自分の頭で理解してから教えるように気をつけないと、知らないうちに洗脳行為を行っているかも知れません


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