究極の真実を知るものはいない


 人間は数ある生命のうちのひとつです。僕達は世界を自分たちの感覚器でとらえ、脳で情報を処理し世界観をつくり出し、価値観に基づいて行動を選択しています。

 人間が何かを理解できたと思ったとしても、それは
自分の頭の中で情報を整理し体系づけることができたと言うことを意味しているに過ぎません。
 しばしば全てを理解したと主張する人間が出現します。しかし、それは体系づけて物事を説明できるようになったと言うだけです。
 自分が作った世界観、価値観を究極のものだと考え称えることはもはや信仰とでも呼ぶべきものです。それは常に誤謬を含むものです。

 
人が人である限り、人の脳でしか考えることはできません。そこには自ずから限界があります。人の感覚器、思考メカニズム、理解力、表現方法というものを超えることはできないからです。

 太陽が輝いていると言うことについて考えてみましょう。昔は情報が足りなかったため理解も不可能でしたが、現在では水素原子が核融合でヘリウム原子になり、その時に放出されるエネルギーで太陽から熱と光が出ていると言うことまでは理解されています。
 ただ、理解はその言語を主語・述語・形容詞などを組み合わせて表現されたものを頭の中で再構築し、納得しているというものです。

 光という言葉自体が光っているわけではありません。熱という言葉自体が熱いわけではありません。その言葉が意味するところを通して、理解したと思っているのです。当然人によって微妙な理解の違い、とらえ方の違いはあります。
 
それだけでは意味のない言葉を組み合わせ、意味を持たせることは確かにすごいことです。しかし、それは人の目に見えるものを人の頭で理解できるように説明していると言うことであり、究極の真実を理解できたと思うのは行きすぎです。

 究極の真実とはすなわち
真理と長年いわれてきたものです。それはこの世の全てのことがらの摂理であり、目に見えるものの奥底にあまねく存在するものです。
 それは時間と空間には左右されず、いつでもどこでも存在するもので、変化したりはせず、ましてや人間の存在の有無などには関係のないものです。
 
時代によって、人によって変化するものは真理とは呼べません。また、人の心でのみ働くものは真理とは呼べません。人がいなくなれば通じず、時代や地域を超えての普遍性を持つとは言い難いからです。それは人の心のメカニズムと言うべきものです。
 究極の真実とは分かりやすく言うならば
この世を動かす物理法則です。

 それは人の存在をすでに超えているものです。
僕達はその一端を僕達にも理解できる言葉や物理法則と言ったものを通じてかいま見ているに過ぎません
 人の知性がどれだけのポテンシャルを持っているのかは分かりません。しかし、
生命のひとつである人間がこの世の全てを理解できると思うのは無理があると思います。
 ビンの中で飼われる蟻はビンの外に出ない限りビンの形を見ることはできません。人においてもそうですが、人が人として生きる限り、人の頭脳以外で思考をすることはできません。それは人としての限界です。

 人は自分たちは知性の優れた生命だと自負しています。しかしそれは絶対的なものではなく、
地球上の他の生命と比べると、という点においての相対的なものです。
 人は視覚においてはタカに負けます。嗅覚においては犬にかないません。聴覚においてはネコの足下にも及びません。
 将来的には人よりも優れた知性を持つ生命が誕生する可能性は大いにあります。その生命は人間よりもさらに究極の真実に近づくことができるかも知れません。
 ただ、やはり生命である以上は全てを理解することはできないと思われます。


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