目的あっての存在か、結果としての存在か


 人間は自分たちのことを特別だと思いたがります。自分たちに特別な価値があると思うことで自らの自尊心を満たそうとします。
 しかし、望むものが真実の姿とは限りません。誤謬を生み出すことなく僕達は僕達自身の姿を正しく捉えることができるのでしょうか。

 僕達は目の周りのものを見て、「これは何々のためにある、あれは何々のためにある」と言いたがります。
 太陽は光と暖かさを僕達にもたらすため、水は僕達の喉を潤すため、etcです。本当にそうでしょうか。
 太陽は僕達に関係なくそこにあり、光と熱を出し僕達はそれを享受している。水は生命にとって無くてはならない物質のひとつであり、僕達はそれを体内に入れることで喜びを感じている。
存在の原因と目的は本来別のものであるはずなのに、僕達は目の周りにあるものに自分たちの価値観で判断し、意味づけをしています存在の原因がどうであろうとそれを目的にすり替え、「〜は〜のためにある」という話をしたがります。

 僕達は生きる上で知性を生存の主な手段とし、その
知性から価値観が作り上げられています。価値観は生存のためのひとつの手段に過ぎないのですが、その影響力はあまりに大きいため僕達は僕達の価値観を通して見えるものを真実だと思いこんでいます
 価値観が変われば世界は変わります。僕達が世界を見るときには、常に価値観という色眼鏡を通して見ているのです。
 それが生存の手段であるならば、その最優先事項となるものはヒトという生物の
生存であり、ヒトという種の存続です。当然自分たちの生命が何よりも大切なものと考えられるようできていると思われます。人間の価値観を通してものを見ると言うことはそれだけで真実を歪曲させてみている可能性があります。しかし、残念ながら人間は人間の価値観を通してしか物事を見ることができません。物事を見るときにはそのことに注意する必要があります。

 地球が誕生してからこれまで変化を続けてきたのは人間を生み出すためでは恐らくありません。
人間は知性をもつにいたり、自分たちの存在を考えられるようになり、その価値観を持って自分たちと世界を見ています
 
自分たちのための価値観を持って得られる世界観はやはり人間が中心に来ることになります。そこでは人間は何をのけても存在すべきものと見なされ、それ以外のものは人間のために存在しているものと見なされる傾向があります。

 目的あって何かが存在するようになったと言うよりは、結果としてそれが生み出されるような摂理が働き、結果としてその状況があるという方が適切ではないかと思います。ひとつのものは
他の全てのものと影響しあいながら変化し、また次の段階で新たな変化の元となります。

 地球環境を元に考えてみます。地球環境は絶妙なバランスを保っているとよく言われます。それは確かにそうです。太陽から地球上に降り注がれた熱は地球上の反射や吸収、放熱を通じてほぼ一定に保たれています。
 生物の間でも草が増えすぎたら草食動物が増え、草が減ると同時に肉食動物も増えて、どれか一方が増えすぎないようにバランスが取れているように見えます。

 ただ、それの根底にあるのは
自然の摂理の働きです。大いなる意志(あるかどうかは誰にも分からないですが)のもとでバランスが保たれていると言うよりは、ひとつの要因が次の結果を引き起こし、結果としてバランスが保たれているように見えると言った方が適切だと思います。

 地球が誕生して約46億年が経つと言われていますが、
その間、一度たりとも全く一緒の状態であったことはありません常に変化を繰り返しながら、ひとつの結果が新しい条件として次の時代へとつながり新しい結果を生んでいきます。その繰り返しの結果として僕達がいるのです。

 世界に存在しているものは目的を持って存在しているというよりは、結果として存在しているものです。そこに目的を持たせることで理解しようとするのは人間の知性が生み出す価値観です。
 そして、
その価値観を真理だと言い張ろうとするのは誤謬を生み出す行為です。
 人間も目的があって存在すると言うよりは、自然の摂理の中で数々の偶然を重ねた結果として存在するに至ったと言う方が適切だと思います。ただ、それが正しいかどうかはまた誰にも分かりません。
 僕自身がそれを真実だと言い張るということは、僕自身がひとつの誤謬を生み出そうとしていると言うことを意味するからです。


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