人間は地球にとって財産かそれとも害悪か
かつて、特に一神教的な考えにおいては、世界は人間のためにあるのであり人間は神から授かった世界において何をしても構わないと考えられていました。
現在その考えは見直され、人間の行いは地球に対して迷惑なのではないか、人間は地球にとっては害悪とも呼べる存在なのではないかという人までいます。他の生命は地球という環境自体に影響を及ぼすことはあり得ないのに、人間だけが他の生命に迷惑をかけ、環境を破壊するとの意見も聞きます。
人間は地球にとっていったいどういう存在なのでしょうか。かつて地球においては人間は特別だと考えていたのは誤りで、実は害悪に過ぎないのでしょうか。
その問いをめぐる混乱は、人間の価値観に過ぎない善悪の概念を人の枠を超えたものに対して適用しようとするところから生まれています
。
自分たちとそれを取り巻く世界に人間の価値観で美醜善悪の判断を下すということがそもそも無理
です。
人間は地球上で数多生まれた生命の中のひとつに過ぎません。人間は特別な存在ではありません。自分たちが特別に尊い存在だというのはただの
エゴがうんだ考え
です。
地球上に尊い存在の人間がいるのではなく、自らを尊いと考える人間がいるだけ
です。
かといって必要以上に自分たちを卑下することもないと思います。
他の生命がそうであるように、
人間は地球上に摂理と偶然の産物として誕生し、生命が持つ衝動のもと個体としての生存と種としての存続を目指しているだけ
だと思います。
自分たちにとって自分たちの存在が特別であるのは当然です
。自分たちの生存と繁栄のために精一杯生き努力をすることは、命を持つ全ての種が追い求めていることであり、人間においてもそれは種としてなんら変わらないことなのではないかと思います。
ただ、自分たちのことを大切に思う気持ちをもって、「だから地球にとっても自分たちが大切だ」とまで主張すると誤謬が生じます。大切であり特別であるのはあくまで自分の視点から自分自身を対象にするときのみです。
自分を超えた所に視点を移して物事を述べようとしてもそれは誤謬を生み出す元
です。
人は人であるからこそ人の価値観を持って生きている
のです。人と異なるものは、当然人と異なる基準を持って生きています。そのような概念すら持たずに存在しているものも充分考えられます。
人として生を受け、人として精一杯生きる。そこには善も悪もありません
。
善悪はもともと人間社会の中でのみ通じる概念であり、生命としてのヒトを考えるときにその概念を適用しようとするのはそもそも無意味
です。種としてのヒトそのものは人の倫理を超えた存在です。倫理は人間社会がうまく運営されるためのお互いのルールであり人間社会の中のみで通じるものです。
突き詰めると、
人間の活動で生じた結果に対して人間の価値観で善悪を判定することも不可能
です。
人に他の種の生命を自分たちのために利用する権利などはありませんが、かといってそれが悪の行為であるとも言いきれないのです。
地球環境を汚すことも、極論から言えば善悪は述べられません。その結果としておこることも必ずしもいけないことだとは言い切れません。
環境を破壊する生命が人間だけであるというのは間違いです。大気中に二酸化炭素が溢れ、今ほど酸素が存在しなかった時代においては、無機的に活動する生命がほとんどでした。その環境を破壊したのは生命のひとつ、シアノバクテリアです。彼らは酸素を活発に作り出し、酸素で傷つくする生命を多く死滅させました。他の生命に迷惑をかけることを悪と定義するならば、彼らの行為は紛れもなく悪です。しかし実際にはその結果として地球環境は新しい局面を迎え、僕達人間が誕生する基礎を築きました。
地球に生命が誕生して以来、環境と生命は常に互いに影響を及ぼし合いながら変化し続けてきています
。
影響を及ぼすこと自体は善でも悪でもなく、人の倫理の概念を超えたこと
です。
仮に僕達が地球上で核戦争を行い絶滅したとします。放射能で地上を覆い寒冷化を引き起こすことによって新しい環境を作り出しその結果としてまた別の知的生命体が誕生したとしたら、「人間の活動はまさに私たちを生み出すために存在したのだ」などと評価してくれるかも知れません。
彼らは彼らの立場を中心にして物事を考える
であろう事は想像し得ます。
ただ、もちろんそんな未来は人間にとっては受け入れることはできません。僕達にとっては僕達が生存し存続することがやはり一番大切なことであるからです。
他の生命に迷惑をかけることにも善悪の摘要は無理があります。滅びゆく生命に思いをはせ、申し訳ないと思うことは人の持つ感情としては自然ですが、それは相手の立場に立って物事を考えるというヒューマニズムの延長上のものであり、それが絶対的な善悪といえるかとはまた別です。
僕自身人間が何をしても良いとは思ってはいませんが、
ヒューマニズムによる感情が自然の摂理に合致しているとは言い切るのは無理がある
と思います。
他の生命に迷惑をかけようとも人間が繁栄することが善か悪かと問われれば、「
次元の違う話なので答えを出せない
」と言うことになります。善であると言っても、悪であると言っても誤謬を生むことになります。
人間が繁栄し存続し続けることと、他の種が被害を被ることはまた別の次元の話です。
実際の所は自然のために自然保護をするのではなく、
人間が生活基盤を失わないようにするために
自然保護をする必要があるのですが、自然を大切に思う気持ちは誰の心の中にも普通に存在すると思います。ただ、「人間が自然を大切に感じると言うことは自然が大切な証拠である」というとまた誤謬を含む理論になってしまいます。
僕達が自然に対する愛情を持つと言うことと自然は大切なものであるという事柄はまた別のものではあるのですが、しばしばこの二つはくっついて感情的な理論の元になります。
大切なものだから愛情を感じるのではないのかという意見が出ると思います。もしかしたらそれはそうなのかも知れません。しかしそれを
「人間が大切に思うものは大切である」とは言い代えることはできません
。逆は真ならずであり、順序が逆なのです。
「犬は可愛いから地球上で大切な存在であるが、虫は気持ち悪いから価値の低い存在である」という理屈が成り立つかどうかと同じです。
僕達の存在がいったい地球にとってどういう意味があるのかは分かりませんが、僕達自身が自らに対しての価値づけをしようとしてもそれは無意味であると思います。
確実なのは今僕達は人間として存在し、「生きていたいと思っている」と言うことです。「生きていたい」という思いと「人の生には価値がある」という言葉はまた別のものです。
人間の存在は地球にとってはおそらく財産でも害悪でもありませんが、
自分たちにとって自分たちの生命はかけがいのないもの
です。
自分たちが授かった生を無駄にしないよう、自分たちの次の世代への良い架け橋となれるよう、誠実に生きていかないといけない
と思います。
いい加減な生き方をしていると僕達を恨むのは他の種ではなく、僕達自身の次の世代であるかも知れません。
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