全てが人間のためにあるという考え方はもうやめよう
人間にとって、社会というものの目的のひとつは、
人間という種のより確実な存続に役立つ
ということです。人間が社会をつくることは、ヒトという種が持つ特性です。
しかし、生活環境により良く適応していくはずの人間社会は、進んだ文明や技術によって、その環境に負荷をかけ、自らの暮らす生活環境を危うくするまでになっています。
人間にとって、生存と存続のための最大の武器は、
適応性・柔軟性
にあると思います。
その知性により、人間は自らを取り巻く状況を把握し、思考し、最適な判断を下す
ことができます。取りうる選択肢がないときには、
自らの創意と工夫によって、自ら新しい選択肢を創り出す
という奥の手も取ることができます。
火を用いることによって外敵と戦い、食料を加工する手段を見いだしたり、地球の寒冷化に対して農業の開始によって食糧危機を乗り越えたり、病気に対して治療法を開発して病気を撲滅したり、人間が知性を持って困難を乗り越えることは、人間が環境の変化や困難を知性によって乗り越えることができる動物であるということを指しているのだと思います。
人間が生存の武器とするのは、技術だけではなく、社会形態であったり、思想や思考などもその範疇となります。
新しい状況に対して、自分達の形を変えながら適応していく
ということが、人間の生存に対する最大の武器なのだと思います。
人間は、そうやって形を変えるたびに社会形態を複雑にさせ、複雑な技術を手に入れてきています。ただ、その過程で人間は自分達に対する特別意識を感じるようになり、最初は自分も自然の一部に過ぎなかったものが、いつのまにか、「人間は特別であり、人間以外のものは人間のために存在する」という考えをするようになっていました。
科学の進歩と共に限界も見え始め、人間中心的な考え方は見直されはじめてはいますが、いぜんとして、その意識はそこかしこに根を生やして価値観の土台に入り込んでいます。
人間が特別で、世界は人間のためにあるとする考え方は、傲慢であるだけでなく、人間を絶対的な真理と結びつけることにより、その柔軟性を失わせます
。人間の特性が生活環境に合わせて変化することであるなら、自分の存在を絶対的な真理と結びつけて生きるための選択肢を自ら制限することは、人間の柔軟性を失わせ、存続していくことのためには害悪となります。
人類の繁栄が極まった今、人間が自分達で環境を変化させたことにより、人間は自ら生活環境の基盤を危うくしています。世界が人間のためにあると考えることは、自分達を特別と感じることと直結しています。
世界に生きる生命は人間の意向とは関係なく存在し、人間がその対象を自分達のために役立てることができるかどうかによって勝手に価値づけしている
だけです。世界は人間のために存在するのではありません。
人間中心的な考え方は、人間社会と生活環境との関わり方に、誤った認識をさせる可能性があります。自分達の特別意識を見直し、もう一度人間の世界の中におけるあり方を考え直す必要があると思います。
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