生に本当の目的があるのかどうかは僕には分かりません。僕は神様ではないからです。
以下に述べているのは現時点での僕の考察です。
生の目的
人生の目的は昔からいろんな人がずっと考え続けてきた問いであり、未だに確立した答えは分かっていません。宗教的に世界と自分たちを定義した価値観の中では、これを目指すことが人生の唯一の目的ですと言うことも出来ますが、それに満足していない人もいます。
宗教的に頼ることなくその答えを出すことは出来るのでしょうか。
人生の目的を宗教が指し示すとき、そこには明確な前提があります。それは「
人間は特別な存在である
」という事です。そこでは人間は生物の中において、他の生き物とは違う存在として捉えられています。世界すらも人間が定義したものにすり替えられています。
人生の目的と定義されたものの多くは、人間には適用することが出来ても動物には当てはまらないものがほとんどです。「人間の生には目的があるが他の生命には目的はない」という論理は暴言です。真理とは永遠に変化せず、全てのものに当てはまり、消えることもないものです。対象が無くなったり変わったりすると通用しなくなるものは真理などではありません。
人間が他の生物と変わらない一つの生き物として捉えるならば、人生の目的というものをもっと大きな生命自体の目指すものとして考える必要があります。
生が目指しているものと反するものを人間が追い求めるならば、それを達成しても本質的な意味はない
のかも知れません。
生命は38億年前に誕生し、様々な激変や危機を乗り越えて、新しい環境、条件へと適応してきました。形は変化することがあっても、とぎれることなく祖先の築き上げたものを土台にして、自らの可能性を追い求めてきました。
そのことを捉えると、生の目的は
「
自らの能力・適性を活かし、環境を生き抜く
」
「
次代への架け橋となる
」
と言うあたりに集約されると思います。一口に生命と言っても、栄養分を分解しひたすら増える事を命題にした細菌類から、膨大な遺伝子のもとで環境への適応と自らの変化に積極的に挑む多細胞生物まで様々です。
全てに共通するのは
自分に備わった能力を活かし生きていく
ということと、
生殖によって次の世代へと生命をつないでいく
と言うことです。
架け橋となると言うことには
同じ種の数と生存範囲を増やしていく
、ということ以外に、開いたニッチを埋めるための
新しい種の出現の基礎
になるということも含まれています。
生きている個体が意識していなくとも、大きな流れとして捉えるならば生命の流れは目に見えない何かに突き動かされているのかも知れません。
生の形は種により様々ですが、全ての生は
自分の与えられた力を発揮して与えられた世界を生き抜く
ことを目指しています。自分たちに与えられた能力はそれを活かして世界を生き抜くために与えられた手段です。種により方法は異なりますが、
生きること自体が生を受けた時点で目指す目的
なのかも知れません。
生き抜くことこそが生の目的であるならば、なんのためかを考えることはそれほど重要なことではないのかも知れません。少なくとも僕は現時点では「
知性を生存の武器とする生命のひとつがその知性により自らの存在の意味を問い始めた
」と受け取っています。
ならば
自分が生まれ出てきたと言うことを素直にありのまま受け止め、自分を最大限に活かせるように生きていく
と言うのが一番前向きなのかも知れません。
その上で
自身の目標を自身で設定し、自分の可能性を追求
していくのが知性を持った人間としての生き方だと思います。
思想によっては今の世界は仮の姿で、死後に本当の生が始まるのだから、今の間にその準備をしておかなければならない、と説くものがあります。それがその通りであるならば良いのですが、
もし死後というものが無く、今の生こそが一番大切なものであるならば、生きる視点を今に合わせずに生きるのは生にとっての損失
なのかも知れません。
また、生きるということは自分のためだけでなく次の代のためのものでもあります。言うまでもなく、僕達は僕達だけで生まれたのではなく、
気の遠くなるような時間の積み重ねの果て
に生まれてきました。
過去の生は自身が生きるために生まれただけでなく、今地球上で生きる者達へと続く道筋のひとつとして生まれてきたとも言えます。生が後へと生をつなぐ役目を持って生まれてきたと言うことは、全ての生が生殖という自身の生には不必要なものを備えているということから想像できます。
しかし、だからといって
自分たちを生み出すために生命の旅が行われたと言うことは出来ません
。人間自身も究極の目的地ではなく、おそらくは長い旅の途中で現れた通過点の一つです。
これからの代のために世界を引き継がせることも生きる者の重要な仕事の一つです。核と遺伝子を持つ生命の追求課題は環境への適応能力、すなわち多様性です。一つの種を滅ぼすと言うことは
その種が保有している遺伝子を消滅させる
と言うことです。
今の世代の中で
優位を占める種が優れていると思うのは間違い
です。恐竜が滅びた後、それまでは低い地位にあったほ乳類が優位となっていったように、環境に最も適合性を持った種から適応放散が行われていきます。今は辺境と呼ばれるような所に住んでいる生命でも、それを滅ぼすことは
可能性の芽を摘む
ということであり、生命に対する反逆行為なのかもしれません。
自然の摂理で種の淘汰が行われるのは仕方ありませんが、人の活動は自然の摂理をはるかに越えた影響を持っています。
環境に対しても次の代に悪影響を及ぼす行為は好ましいとは思われません。生命の課題の一つが環境への適応であるとしたら、人による環境への影響の後にもそれに適応した種が現れるとも考えられなくはないですが、その前に確実にヒトという種の中での次の世代に悪影響を及ぼします。
次代への架け橋という点から考えると、その行為は許されない行為です。
生命が未来においてどのような形をしているのかは分かりません。また人生の目的がはっきりする日も来ないのかも知れません。
結局今僕達に出来ることは、精一杯生きるという当たり前のことなのかも知れません
。
生とは生きていくために授かったものです。自分の生を精一杯生き抜くことに用いないことや、精一杯生きている他の生の命を無意味に奪うことは生への冒涜といえるのだと思います。
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