手段が目的に置き換わる
世の中には見かけだけのものと意味のあるものとが入り交じっています。何を自分の大切なものと感じるかは人それぞれですが、行動するときには
それが自分にとって本質的な意味を持つものかどうか
を考えないといけません。
良い車に乗ったり、おいしいものを食べたり、高価なものに囲まれて暮らす生活はあこがれる人も多いでしょうが、もっと大切なことは
それが自分にとってどういう意味を持つか
と言うことです。
車を持つことの意味はより快適に過ごし生活レベルをあげるためのものです。食事をするのは栄養や日々のエネルギーを得るためのものです。
それらはより充実した生活を送るという
目的のための一つの手段
に過ぎません。
ところがしばしば、その手段自体が目的となり、より高価なものを得る事が価値のあることのように捉えられることがあります。
下手をすると、そちらを求めていることの方が多くなってしまうこともあります。
目的に置き換わった手段
を集めていくことでも確かに充実感や満足感は得られることもあります。しかし、生きる上での本質的な物かと言うことを考えると、それは人生の本質とは呼べずむしろうわべ的な物でしかありません。
それにより、自分が本当に必要としているものが得られるならばそれは自分にとって本質的なものです。
しかし、それを得てもその先に何もないならば、それは自分にとっては本質的なことではないうわべだけのものと言うことです。
ものを得てもむなしさだけが残るなら、それは自分が本当に必要としているものが得られていない
からです。
自分が本当は必要としていないガラクタのようなものに囲まれて暮らしたとしても、本当に精一杯生きているとはおそらく言えません。
今の世の中は確かに物に溢れていますが、本当に自分にとって必要な物はそのうちの限られたひとかけらだけです。それは砂の山から金の粒を探り出す作業のようなものです。
他人がどうあるか、何を求めているかは自分とは関係ありません。
自分が本当に必要としているものは何か
を見つめ、その行為によりそれが得られるかどうかを考えて行ってこそ、本当の宝物が自分の中に手にはいると思います。
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