死ぬ権利と死に方の選択


 一人の人間として、社会の中でどのように生きていくか、その上では権利と義務がついて回ります。僕達はひとりで生きているのではなく、自然の中に作り出された社会という特殊な枠組みの中で生活しているのです。
 社会の中で生きる限り、自分の欲求を満たす上で他人に迷惑をかけてはいけませんが、迷惑をかけない限りは何をしようと個人の勝手です。今の自由主義社会の主流はそういう考え方となっています。
 人の生死に関して権利はどこまで存在するものなのか、人間に死ぬ権利というものが認められるのか、それは未だ結論が出ていません。以下は現時点での考察です。

 権利というものは人間が社会の中でどう生きていくか、という事に関して適用されるものです。逆に言えば、
人間が社会の中で生きると言うことを超えたものには権利や義務の概念は適用できません
 
人間自体には自然の中で生きる義務も権利もありません。ただ、人間が自分たちでそう規定して、本来社会の中でのみ有効であるものを絶対的なものであるかのように考えているだけです
 同じように死というものに関しては義務も権利も適用外の事柄だと思います。

 生きるということは本来主体的なものです。どういう生き方を選択し、どういう死に方を選択するか、それは主体的なものであり、絶対的な善悪で判断できることではありません。

 社会的な解釈から、医療費や介護の必要増大による社会の負担を心配する意見や、知的障害者に対する優性思想なども存在します。
 社会の中で誰かが物差しを決め、それに合う合わないで生きるべきかどうかを決めると言うことは陰惨な社会につながる可能性があります。
 ひとつの基準を決めたとしても、
時代が変われば価値観も変わります。それに生きていたいと思う人から生きる自由を奪い取る社会がよい社会であるとは思えません
 目指すべき社会は
精一杯生きていたいと望む人が精一杯生きることができる社会であり、自分らしい生き方を選択することができる社会であると思います。

 生きるべき人間、死ぬべき人間がいるのではありません。
 生死に関しては社会契約的な義務・権利は通用しません。大切なものは本人の意思と願望であり、どういう生き方をするかという行動の選択です。

 不治の病にかかり、目下それを知るのは医師と家族だけだったとします。それを本人に伝えるかどうかはひとつの問題です。それを伝えることにより、本人の冷静な判断が阻害され、自殺など本人に対する不利益につながる可能性があるからです。
 アメリカではインフォームド・コンセントが発達しているせいか、どんな悪性の疾患でも本人に伝えるそうです。例えそれで
患者が自殺しようがそれは患者の責任だと考えるそうです。逆に言わなかった場合、告知義務違反として賠償責任が生じることがあるそうです。
 日本では自殺させると逆に医師の責任を問われる風潮があるため、家族と相談のもと本人には内緒にしておくことも多いようです。

 しかし、
本人に現在の正しい状況を伝えないことは、本人に自分の人生に対する選択をさせないと言うことを意味しています。
 本人が安らかに生活することだけを望んでいたならばそれで良いでしょうが、もし本人に自分の人生を駆けて成し遂げたいことがあったならば、本人はそれを成し遂げることができないことになります。
 例えば、ある学者があと3年たったら今までの自分の研究成果をまとめて著作を発表しようと考えていたとします。そこに本人に癌があることが分かり、家族にだけ余命半年と伝えられたとします。もし家族がそれを本人に伝えることをしなかったならば、その学者は自身が成すべきであったことをなす事のできないまま人生を終えなければならなくなってしまうかも知れません。

 病気になるのはしょうがありません。人間誰しもいつかは死にます。ただ、
自分がどう生き、何を成そうとするかは人それぞれです。運命全てを信じてはいませんが、どう努力しても避けることの出来ない事というものも時にはあります。そんな時にでさえ、行動を選択すると言うことにおいては人間は自由です。
 
自分が主体的に選択をしたならば、それは自分の人生の主人公であったと言うことです選択肢も与えられず、選ぶことができなかったとしたら、人生を自分で選ぶことができなかったと言うことです
 
避けられない運命を知らされたとしても、その中で自分にできる精一杯のことをすれば、それは精一杯生きたと言うことだと思います
 本人に病状を知らせないと言うことは、すなわち選択をさせず、自分の死に様を選ばせないと言うことです。

 意見が分かれるところですが、自分の現状を知りその結果自分の命を絶つ結果になったとしても、それは自身でひとつの選択をしたと考えることもできます。ただ、そこに最低限必要なのは、現実を現実として受け入れ、冷静に判断して行動を選択すると言うことです。恐怖や現実から逃れるために死を選んだのであれば、それは自分の人生の主人公であったとは言えません。
 大切なことは自分が自分らしくあるために、自分が授かった生を無駄にしないよう自身にとって最善の選択をすると言うことです。自分で納得して選んだのであればそれは自分の人生ですから誰にも善悪をつけることはできません。

 自殺が本人にとっての選択肢といえるかどうかは意見が分かれます。少なくとも本人が自殺することを助け、促す行為はおおかたの国において犯罪と見なされています。
 生きる先に苦痛以外無いと分かったとき、生きるべきか死ぬべきかは生命の質を一番に考えるか、生きること自体を一番に考えるかでもまた変わってきます。決まった答えなどはなく、掘り下げていくと生命とは何かまで行き当たる、奥の深い問題です。
 またそのことについてはあらためて考察したいと思います。


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