やりたい放題のその先は
人間は現在、地球上、特に
地上での覇権
を握っているように見えます。
多くの人は人間が覇権を握っているのを、わりあい当たり前のことだと考えているかも知れません。
これまで
人間は、
自分達の欲求と欲望を満たすために地球の資源を自分達のために用いることを当たり前のように行ってきました
。環境保護を話し合っている人たちも、「地球資源は人類公共の財産」などと当たり前のように述べていたりします。
そしてその結果、人間の活動により特に産業革命以降、人類を取り巻く生活環境は急激に悪化しています。
人間の文明から排出される二酸化炭素は増加し、その増加による気温の上昇スピードはかつての生命の大絶滅時に匹敵するとの意見もあります。
人が繁栄を謳歌する一方で、実際には人類はかなり危険な状態にあるのかも知れません。
生活環境が変化してその人口を維持できない状態になれば、現在の世界の形は崩壊します
。
人間の社会は、揺るぎない強固な土台のもとに成り立っているのではありません。僕達の繁栄は“
カオスの縁
”とも呼べるような、生活環境の変動の
微妙なバランスのもとに成り立っている
ものです。僕達がやりたい放題をやるということは、
自分達の生活を支えている微妙なバランスを自分達で壊す
ということです。
生活環境が悪化すれば、人類の存続は間違いなく危ういものとなります。
生命の流れの中での人類という観点からも考えてみます。
人類が類人猿と分かれてから、今で
450〜500万年
くらい
といわれています。人類は僕達以外にも今までに数多くが現れ、そして僕達のルーツとなる種を残して全て滅んで消え去りました。僕達の直接の先祖となる新人が誕生してから現在まで、たかだか
15万年
と言われています。
生命が誕生してからの時間を思うと、人類が繁栄をし始めた時間など、つかの間の出来事です。全体から見れば、わずかな時間に過ぎないのですが、人間は自分達を取り囲んでいるものごとが世界のほとんどだと感じているため、この世界がそのままずっと続いていくものだと考えています。
生命は変化していくものです。今後どうなっていくにしろ、
ずっとこのままの形で人類と社会が存続していくことはあり得ないだろう
と思います。
人類にとっては、自分達が
形を変えながら次の種のルーツになる
のか、それとも
そのまま生命の歴史から姿を消すのか
という未来しかないと思います。そのままの形で何百万年と存続していくことはおそらくありません。
人類の繁栄は、
環境変動の谷間のいわば“凪”の部分で成り立っている
ものです。どんなに人類が存続を望もうとも、
もし人類の適応力を上回る大変動が来たなら、生命の歴史の舞台からは姿を消さざるを得ません
。
しかし、人間が今まで通りやりたい放題にやって自分達の生活環境を自ら破壊したとしたら、
避けられない大変動が来る前に自分達で墓穴を掘って自ら滅亡を招く
ことになってしまいます。
たとえ僕達が滅亡しても、生命の歴史は終わりません
。それぞれの種は環境の変動でしばしば滅ぶとしても、生命の流れはおそらくそんなにヤワなものではないと思います。
生活環境を破壊すれば、たしかに
多くの種が巻き添えを食って絶滅
するでしょう。しかし、どんなに僕達が生活環境を壊したとしても、おそらく全ての種を滅ぼすことまではできません。環境の変化によって多くの種が絶えたとしても、
生き残った種があればその中から開いた生活空間へと適応した生命が進出してきて、新しい種が誕生します
。
生命の生命たるゆえんは
変化しながら生活環境に適応していく
という能力にあると思います。
新しい種の誕生に伴い、
新しい相互関係がつくられながら次の世代の多様性がつくられていきます
。人類が環境に大きなダメージを残したとしても、人類が消滅して500万年程もすれば、人類がいた痕跡などかすかなものになっていると思います。
種の滅亡は人類の誕生以前にも繰り返しおこってきた
ことです。
環境の変動による種の滅亡と新しい種の誕生はこれからも、おそらく何度も繰り返されていきます
。
人類が他の種を滅ぼすということは、
人が滅ぼさなければその種から新しく誕生したかも知れない種が誕生する機会を失う
ことになるとは言えます。
避けられない環境の変動によって種が滅んでいくことと、人間がやりたい放題をしてその巻き添えで種が滅んでいくということはまた、意味合いが違う
とも言えます。
そして
人間が他の種に大きな影響を及ぼした後にできあがった生物相と、人間が影響しなかったときの生物相はおそらく異なっている
と思います。
しかし、その一方で、
その違いがどういう意味を持つのかは人間には判断できません
。他の種に迷惑をかけるのが忍びないと感じることはできたとしても、それが地球にとってどうのこうのとまでは人間には言えません。
人によっては「今ある種を残すことが意義のあることだ」というかも知れません。しかし、今の形のまま、永遠に種が形を変えずに持続していくことは不可能です。
人類がどういう行動をしたとしても、はるか未来の地球上の種の構成は、間違いなく現在とは大きく形を変えています
。
種の形と数が変遷していくことが地球にとってどういう意味があるのかを人間に知ることはできません。今ある種を残すことが地球にとってどういう意味があるかを判断することも人間にはできません。
また、人によっては、「種の多様性自体に意味がある」と言う人もいます。しかし、多様性は目的あって組み立てられているものではなく、ある生物によってつくられた栄養を利用する生物が現れ、その生物をまた利用する生物が現れ・・という形で、
結果として組み立てられている
ものだと思います。
人が世界から姿を消した後は、多様性は自然に回復していくと思います。開いた生活環境に適応する動物が誕生し、その相互作用により多様性は回復されていきます。
しかし、人間が望むのは、自分達が滅亡してその後に多様性が回復されることではなく、
自分達の子孫が生活環境の悪化の影響を受けずに過ごせるように
という素朴なものでないかと思います。
何に意義があって何に意味があるかなどは人間に分かることではありません。
感じ、願望を持ち、その願いを叶えるために努力をしよう
とすることはできたとしても、その
“
絶対的な意義
”を人に断定することはできません
。
生命に関して人の価値観を持って判断しようとするのは、判断できると考えること自体が誤りではないか
と思います。人が“意義”だとか“価値”だとかと言ったとしても、それはそもそも人間だけの概念です。
生命の存在は人の価値観とは別個のものであり、生命は人の価値観ではかれるようなものではない
と思います。判断できると思うのは、
人間が傲慢であり、自分の知性を過信している
からです。
人が自分達の価値観の正当性を主張したところで、人の価値観は人間が滅亡すれば、この世界からは消え去ってしまいます。
自分達の行為に対しても、人が“客観的”にその意味を断定できたりはしません
。
例えば、生命が生活環境を乱すことが悪であるとするならば、僕達はそもそも誕生できませんでした。かつてシアノバクテリアの活動によっておこった大気中の酸素濃度の上昇は、間違いなく同時代の他の生物にとっては迷惑で、環境破壊以外の何ものでもありませんでした。
しかし、結果的には、その影響で酸素を利用する生物が現れ、またオゾン層を形成し、次の世代の生命の誕生のもととなりました。
別にシアノバクテリアはそんなことまで考えて活動していたわけではありません。
自分達が生まれ持ったものを活かし活動したことが、結果として新しい生活環境をつくりだした
だけです。
存在するものに意味があるというよりも、
自分達の過去の生命の活動とその結果を僕達は自分達の価値観で推し量り、そこに意味づけをしようとしている
だけです。
もし、人間が地球をヘドロの海で埋め尽くし、自分達はその事によって破滅したとしても、そこからもしもヘドロ生物が誕生して知性を持てば、「人間は我々を生み出すために活動していた」などと評価するかも知れません。
“自分達にとっての意味合い”は言えたとしても、
“地球にとっての意味合い”を述べようとするのは間違い
です。
人間の価値観は人間だけのものです。人間がどう思いどう行動するかということは自分達で決められたとしても、地球にとってどうのこうのとまで判断はできません。そんなことを言うのは傲慢でしかありません。
「地球にとっての意義」などと称して、
自分達が行っていることに価値づけをすることはやめたほうがいい
と思います。
自分達のものさしを当てはめようのないものまで判断しようとするのは間違い
だと思います。
しかし、最終的な意味は人間に分からないとしても、人類が何をしてもいいとは思いません。傲慢さを感じると、人間はその行動に違和感を感じるようです。好き放題にふるまい、自分達の欲望のために他の命に不必要に迷惑をかけるのは、
自分達の持つ良心を踏みにじる
行為です。
人がやりたい放題を続け生活環境を壊すことは、間違いなく自分達の破滅へと近づいていきます
。
まずそれを回避するために、生活環境を守らないといけないのです。
そして、環境や身の回りに住む生物を保護することには、自分達の存続を安定させること以外にも理由があると思います。それは次のコラムで考えていきたいと思います。
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