ヒューマニズムで命を大切に扱えるか


 人の命を大切にしなさいと言うときに、ヒューマニズムの論理は確かに大きな力を発揮します。
 ヒューマニズムの理論においては、
人の命はそれだけで高い価値を持っており、それゆえに命は大切に扱わないといけません

 人の命は価値が高いものであるといえば、
人を虐げたり、搾取することは罪深いことになり、全ての人に最低限の生を送ることの手助けを与えます。
 たしかに、人間社会の枠内で、人がいかにお互いに大切にしあうかだけを考えるならば、完成度の高い理論であると思います。

 人の命のみを扱うなら、ヒューマニズムの理屈が正しいと信じていても問題はないかも知れません。しかし、
人間以外の命に視点を移すと、ヒューマニズムの理論はとたんにおかしな面を見せ始めます

 困っている人間を助けるのは、ヒューマニズムに基づく行為です。
高い価値を持つ人間を助けるという行為は、それだけで尊い行為であると考えることができるからです。

 では、困っている犬を助けるのはヒューマニズムでしょうか。
 思わず「そうだ」と答えてしまいそうですが、実は違います。困っている人間を助けることは紛れもなく人間を尊重するヒューマニズムですが、
犬を助けたとしても、それはヒューマニズムでも何でもないのです。それは人間の持つやさしさの表れとしか言えず、しいて言えば“人道”とでも呼ぶべきものとなります。

 ヒューマニズムはその名の通り、
人間[Human]+主義[ism]であり、その理論の骨格は、「高い価値を持つ人間はその価値ゆえに、大切に扱われるべきものである」ということです。
 
地球上に存在する生命の中で、最も価値の高いものに人の命を位置づけ、その根拠を人の理性に求めます。そして、人間の思考によって判断された価値づけを絶対的なものとみなします
 
人間には、価値の高い命と価値の低い命を、自分の理性によって判断できると考えるのです

 人の命は高い価値を持つがゆえに大切に扱われるべきものと見なされます。しかし、
人間以外の生命の命は、人間ほどの価値の高さを持たないとされるがゆえに、人間ほど大切に扱われるべきものではないとされます。
 その主張の根拠となるのは、自分達人間の理性の判断です。

 ヒューマニズムの理論においては、人間以外の命を命そのものとして大切に扱うことはできません。大切に扱われるとしても、それは
その対象となる命がそれなりに“高い価値”を持つとされた場合のみです。

 ヒューマニズムの考え方に基づいていくつかの問いを考えてみます。

 犬の命は大切なものでしょうか?
 もちろん、答えは「はい」です。なぜなら、犬は賢く、人にとっての大切な家族になるからです。

 イルカの命は大切なものでしょうか?
 それも「はい」です。イルカはかわいいからです。

 では、カラスの命は大切なものでしょうか?
 おそらく「いいえ」です。なぜなら、カラスは人間にとって迷惑な動物であり、価値の低い動物だと考えられるからです。

 ヒューマニズム思想においては、
生きる命の大切さは人間によってつけられた価値によって決められます命そのものが大切なのではなく、命に対してつけられた価値が高いがゆえに大切に扱わなければならないのです。

 特に欧米においては、
美しいものや人間にとって有用なものは価値の高い存在すべきものであるが、そうでないものは価値が低く、ゆえにそれほど大切にする必要のないものであると見なされます。
 そして、命に対して、「この種は人が役立てるために存在するもので、この種は大切にかわいがるべきものである。」と、命に対する価値づけを平然とつけます。
 だからこそ、牛を食べてもなんとも思わないのに、クジラを食べることに猛烈に抗議するということがおこるのです。

 ヒューマニズムにおける命に対する価値づけの暗黙の前提は「
人間のつける価値づけは正しい」というものです。人間を世界の中心に位置づけ、かつ人間の理性に絶対の信頼を置くがゆえに「人間の考えたことは正しい」とされるのです。

 ヒューマニズムの考え方では、大切にするべきかどうかはあくまでもそのものにつけられた価値づけによって決められます。
 しかし、その価値づけは
人間と関係なく存在するものに対して、人間側が自分達の理屈によって判断を下したものでしかないのです。

 人の命は最も尊く、犬はそれに次ぐぐらいで、人間にとって価値のない命は尊くないなどと、
人間は自分達の理屈で命に対して価値づけを行っています
 昨日までは人間にのみ生きる権利があると主張されていました。今日では人間社会に役に立っている動物への生きる権利を与えるかどうかを議論し、その次は人間社会の外にいる動物にも生きる権利が与えられるかどうかを議論しています。

 命に対してどういう価値づけをしようかと議論する前に、
なぜ人間にそんな価値づけをすることができるのかを疑問に感じないのかと、僕は不思議に思うのです。
 人間がごう慢な動物であるのは、ほとんどの人が多かれ少なかれ納得できることであると思います。しかし、
一番のごう慢さが何かといわれれば、自分達の尊さを自分達の理屈によって主張することではないかと思います。

 
命が高い価値を持つかどうかなど、人間に判断できるようなことではありません生きる権利も人間が誰かに与えられるようなものでもありません
 池の中を泳いでいるカエルに向かって、「喜べ、今まで君たちには生きる権利が与えられていなかったが、我々人間は今日から君たちカエルにも生きる権利を与えることにした。ありがたく思え。」と言ったところで、喜んでくれるとも理解してくれるとも思えません。

 ヒューマニズムは確かに良くできた理屈です。しかし、
その根拠となる主張は、人間が自分達の都合で述べているものでしかありません
 ヒューマニズムによる“命の大切さ”は、どんなに強固に主張したところで、砂の上に立てた城のようなものでしかありません。なぜなら、その理屈は
“フィクション”の上に成り立つものでしかないからです。

 ヒューマニズムは、
価値あるがゆえに大切にしなければならないとする、義務からの「命の大切さ」です。
 人間の主張する価値づけが人間の都合によって変わるフィクションでしかないならば、ヒューマニズムの主張するような“命の尊さ”は根底から成り立ちません。

 では、命に価値があるものかどうかということが問題とならず「命を大切なもの」として扱える考え方ができるかどうか、また、冒頭の「困っている犬を助けることがいったいなんなのか」に答えられるような考え方はどんなものなのか、それを次の「ヒューマニズムから人間性尊重主義へ」で考えてみたいと思います。


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