生きる資格
生きる資格のある人間を定義しようと言うつもりはさらさらありません。ただ、生きる資格というものについての考察です。
近世になって、社会が発達すると全ての人間には生きる権利があるという考え方が「常識」として作られてきました。その考え方自体は人がより良い人生をおくるための価値観としての人間の財産です。
しかし、人間には生きる権利が絶対的にあるとまでいうと、弊害が出てきます。絶対的な生きる権利を持つ人間がいるかというと、そんな人間は一人もいません。その考え方自体はただの価値観の一つであり、人間同士でしか通用しない概念です。
どんな人間が生きる権利を持つかという議論は、どんな人間に対して生きる権利を社会として認めるか
という議論に過ぎません。
ここではそのことと
人生の目的
の内容とを重ねて話を進めていきます。
人間が生きる上での目的を
1.
自らの能力・適性を活かし精一杯生きる
2.
次の世代により良い社会・価値観と言った財産を引き継がせる
と言うことと定義すると、それを果たしている人間ほど価値のある人間だとも言うことが可能です。すなわち、
自分の持つ能力・適性を活かし、社会の発展に貢献する
人間です。
社会は
人間がより精一杯、自分らしく生きるための舞台
です。例えハンデがあったとしてもそれを受け入れた上で精一杯生きるなら、だらだら生きているだけの人間よりもよほど意義のある生を送っていると思います。
また、
より良い社会の発展や価値観の形成は次世代の人たちがより良い生を送るための助け
となります。ソクラテスは「悪法も法である」といって毒杯をあおりました。共感はしますが、正しいとは思いません。
なぜなら、人生の目的のひとつが後世によい価値観を残すことであるならば、
悪法を後世に伝えることは目的に反する行為
だからです。
より次世代にあった価値観を残していく
ことは、今を生きる者にとっての使命だと思います。法や価値観自体はただの手段に過ぎません。あくまでも目的はより良く生きることです。
ではどんな人間がどう生きるために社会があるのが好ましいのでしょうか。社会の存在意義と目的を考えてみます。
社会は持てる者と持たざる者を作り出すためのシステムなのでしょうか、そうではないと思います。社会は努力などしなくてもそれなりに生きていけるような怠惰な人間を作り出すための者なのでしょうか、そうではないと思います。今の僕の考えでは、社会とは
精一杯生きようとする人間が精一杯生きることが出来るための場所
です。
農耕の発明・富の形成とともに社会は成立しました。かつては社会の主役は富を持てる者でした。それが人権意識の発達とともに主役になれるボーダーラインは引き下げられてきています。
自由な社会・自由な競争は一方で、持てる者と持たない者の較差を広げています。果たして人間社会の目的は持てる者と持たないものを作り出すことなのでしょうか。人生の目的は持てる者になることになることなのでしょうか。
本来富は生存のための手段でしかないはずです。富を求めること自体は目的に置き換わった手段でしかありません。富を得るために自分の能力を磨くことは本来の姿とは正反対のはずです。
困窮の中で暮らす人には自分らしくも何もありません。生存することだけが目的となってしまいます。社会の目的はおもしろおかしく生きる人間と困窮する人間を作り出すことではありません。
自分の人生の主人公となれるかどうかは自分の意志で選べるべき
です。経済的な支えはその最低限の土台です。
その上で
自分の能力・適性を活かし、より良い社会作りのためできるだけ多くの人が参加できる社会
が良い社会です。
よく自己実現が人間の欲求の最上の姿だと言われますが、その先の「
何のための自己実現か?
」を考えると、やはりその先には
自分を活かしてより良い社会を作り、それを後世に残す
と言うことにつながると思います。
自分の能力を発揮しても、それがその先につながっていかなければ意義は薄くなってしまいます。自己実現をすれば別荘やヨットが手に入るという理屈は結局うわべだけの話に過ぎません。
金のために働くのなら、自分の人生には金以上の価値はないことになります
。
目的に置き換わった手段などではなく、本当に意義のある人生の本質としてのものを追い求めるこそが大切です。
生きる資格のある人間を考えると、
自分の人生を精一杯生きている、より良い社会の形成に力を合わせている
という事だと思います。
自分の生を大切にせず、自分の欲望のために他人を傷つけたり負の財産を引き継がせようとするものは生きる資格が少ないと思います。
全ての人間に生きる権利があると思うのは人間の頭の中にあるひとつのただの概念に過ぎません。正確に言うと
人間は生きる権利というものを認める社会を自分たちで作り、その中で生きる限り社会が生きる権利を認めているだけです
。人間だから生きる権利があると思うのは間違っていると思います。
個人がそれぞれの人生の主人公として有意義な人生を送れるよう、自分の行動や選択を自身でとれる自由は不可欠です。しかし、
自由と責任はワンセット
のものです。
自分の行動には責任を持ち、自身の行動が他の人間に迷惑をかけないようにしないといけません
。他人に被害を負わせた側の人権も重んじられますが、それは二の次の問題だと思います。なぜなら、
社会の主役は「がんばって生きようとしている人間」
のはずだからです。
社会を作る一人ひとりの責任はできるだけ全ての人が
「がんばって生きよう」という意識を持てる
ようにしていき、かつ
精一杯生きることが誰にでも出来る
社会にしていくことだと思います。がんばって生きている人間を傷つけ妨害する人間を社会の構成員と呼べるかどうかは僕には疑問です。
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