人生の目的


 人生に目的はあるのか、それは大昔から使い古された言葉であり、かつ答えの出ていない問題でもあります。果たして「人生の目的」とは存在する物なのでしょうか。

 僕ももちろん答えを知っているわけではないですが、今の考えで答えを出すならば、「あるとも言えるし、無いとも言える」です。
 大昔からその問いをするときには暗黙の大前提がありました。それは「
人間は特別な存在だから、特別な使命・人生の目的があるはずだ」というものです。昔からその前提に気づかず、「特別な使命」を探して答えが出ないと言っています。

 おそらくはその前提こそが間違いの元です。
人間は特別な存在などではありません
 全ての生は生にとっての目標を追い求め続けてきました。その過程で
知性を生存の武器とするようになった人間はその知性により「特別な存在に与えられた特別な使命」を想像し求めるようになったのだと思います。特別な使命を求める限り永久に答えは出ません。「人生の目的」を人間だけにあるべき特別な使命として考えるなら、それは存在しないというのが答えになります。

 人生に目的があるとするならば、それは
生の目的の延長上でしかありません。生の目的で述べたとおり、生の目的はおそらく

1.
自らに与えられた能力・適性を活かして環境を生き抜く
2.
次代への架け橋となる

 といったあたりです。これならば人間にも当てはめることは可能です。人間が生命の歩みの中で生まれた一つの種である、ということを素直に受け入れるならば、生全体に普遍的なものしかあり得ないと思います。

 人間に与えられた能力・適性は知性です。しかし、それにしても他の種と比べるとといった
相対的な物であり、絶対的な物ではありません。生物の進化によりさらに優れた知性を持つ種が誕生する可能性は大いにあります。むしろ無いと思う方がおかしいかも知れません。
 その知性にしろ、人間が生み出した物自体により自らの種の生存が脅かされています。能力の過信は命取りになります。
自らを取り巻く環境と自らの能力の限界には正しく目を向けるべきです。

 能力・適性を活かすと言うことはひと言で言えば自分なりに
精一杯生きるということです。オケラはオケラなりに、カエルはカエルなりに与えられた能力を活かして精一杯生きています。自分の与えられた力を発揮せずにただ生きているのは生への冒涜です。
 人のみならず
生命が生きると言うことは他の生命を犠牲にするということです。生きる限りそれは避けることは出来ません。
 植物は良いが動物はダメという議論は一種の欺瞞のような気がします。全ての命は他の生命を犠牲にして生きているのです。精一杯生きないことは自分の生に対してだけでなく自分が犠牲にしてきた他の全ての生に対する冒涜でもあります。

 自分が精一杯生きるということとともに、
次代への架け橋となると言うことはさらに重要です。自分の命が尽きると言うことと種が滅ぶと言うことを比べると、はるかに規模が違います。また自分が死んでも他の個体が生きていれば次代へと続いていきますが、種が滅びると次代へと続いていくことはありません。またその次に誕生してくる次の世代の種も現れません。
 人にとっての次代とはとりあえずは子や孫、その次と言ったより近い世代での話になりますが、人においては残すのは命だけではありません。
より生存に適した環境や、より良く生きるための人間社会、それを支える価値観、そういうものが次の世代の人達へと引き継がれていきます。僕達は僕達だけで生きているわけではなく、すでに過去の人たちが積み上げて来たものの上に立って生きています。それを軽視したり、僕達の代でそれらを台無しにすることは過去の生に対する冒涜でもあります。

 人が人間社会で生きるということは、自分が精一杯生きるだけでなく、自分たちの次の世代へとより多くの財産を残していくことでもあります。過去の代から譲り受けたものを次の代に手渡しすることは生を受けたものの義務だと思います。

 今の段階では僕の結論は人生の目的は、

1.
自分の能力・適性を活かして精一杯生きる
2.
次の世代により良い社会・価値観と言った財産を引き継がせる

 ということだと思います。
 ただ、個々人の考え方やそれぞれの目標はそれぞれで良いと思います。ご感想・ご意見をぜひお聞かせ下さい。


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