なぜ野生動物を保護するのか
「自然を保護しよう」という言葉は、
人間にとっての生活環境を守る
ということで説明できます(「
なぜ自然を守るのか
」)。
しかし「野生動物を保護すること」について深く考えていくと、その理由として語られているものが確固たるものではなく、深く考えるほど難しい問題であることに気がつかされます。
現在その根拠とされているものでは、それぞれ誤謬や欺瞞が生まれてしまいます。
「他の動物が困っていたら助けるのは当たり前だろう」と言われそうですが、それはあまりに考えが浅すぎます。
そう言えるのは、おそらく深く考えたことがないから
です。
今回のコラムは多分、
“常識”こそ正しいと考えている人や僕の真意をくみ取れなかった人は途中で憤慨する
かもしれません。
しかし、よく読み、よく考えてもらえれば、僕の述べていることを理解できると思います。
憤慨する一番の要因は、“
今までそんなこと考えたこともなかったから
”だと思います。
普段何気なくありふれていて“当たり前”に受け止められている言葉でも、突き詰めて根っこから考えると、あやふやな根拠の上に成り立っている
ものです。
「野生動物を救うのはいいことだ」と純粋に“信仰”していれば楽なのかも知れませんが、それにはあまりに多くの誤謬と欺瞞が含まれています。
きれい事ではなく、誤謬や欺瞞を含まず、自分の心をだまさずに論理立てて考えるには“常識”の向こう側の考え方を模索しなければなりません。
何も考えず“常識”の手前で満足しろと言われても、欺瞞があると感じている限り考えてしまいます。
割り切ることは思考を放棄すること
そのものです。
「なぜ野生動物を保護するのか」ということを、その一番根っこにある部分からほじくり返して考え直します。今回のコラムは獣医療を生業とする人間が、思い考えるひとりの人間として述べているものです。獣医師の立場で書いているのではありません。どちらかというと
哲学的な領域
に大きく踏み込んだ話となっています。
前書きが長くなりましたが、今回のテーマがそれだけ重く深いものだからです。ちょっと難しめの内容となっていますので、気合いを入れて読んでください。
憤慨したとしたら、多分誤解して受け取っているのでもう一度よく読んで下さい。書き手が次の段階の“常識”を語ろうとし、読み手が今の“常識”で判断しようとする場合、しばしば誤解が生じます。
以下、「野生動物を保護する」ための現在の理屈を1〜6の角度から見直し、総論に入っていきます。
誤解の無いようにお断りしておきますが、
僕は野生動物を保護することを批判しようとしているのではありません
。
その理屈となっている部分に欺瞞を感じているので、それを指摘し、再考したい
のです。
僕の目指しているのは、命を命そのものとして大切に感じ尊重することです。今の理屈ではそれもできていません。
1.命への価値づけ
人間は命そのものに価値があると思っていますが、
命そのものへの絶対的な価値は人間には評価できるものではありません
。
人が「これは守らなくてはいけない動物だ」と述べることは、人は「大切な動物を見分ける」ことができ、「人が大切だと思う動物は地球にとっても大切だ」と思っているということです。
「人は命に対する絶対的な価値づけをできる」と考えている点において傲慢さを含んでいます
。
実際、人はきれいな動物や親近感を感じる動物の保護には比較的熱心になりますが、“有害”と感じていたり、価値が低いと感じている生物の絶滅には熱心さの度合いが低くなります。
稀少だから価値が高い、数が多いから価値が少ないという価値づけも、あくまでも
人間の価値観によるもの
です。“絶対的な価値”は人間には分かりません。
「数が少ないからといって守らなくて良い」などといっているのではなく、
数が少ないことと価値が高いことを結びつけるのは、人間独自の価値観によるものだ
ということです。
精一杯生きていることにおいては、天然記念物もその辺のカラスも違いはありません
。
「命は平等だ」と言いながら、人間の価値観で命に価値づけをすることは矛盾しています。
ここで言えるのは、「価値が高いから大事にしなければならない」というのは人間の価値観によるものであり、
人間は
「
価値が高いと思ったものを大事にしようとする
」習性を持っているということです。
それは善でも悪でもありませんが、そういう習性を持っているということは自覚しておかなくてはならないと思います。
2.命の価値の差
「命を救うことは良いことだ」と言われても特におかしくは聞こえませんが、
命を救おうとするとそれにより多数の矛盾が生まれます
。
人間は、ツバメを保護するために無数のミルワームを与えます。また、フクロウを助けるためにたくさんのニワトリの肉を与えます。
ひとつの命を助けるためには、他の命を犠牲にすることが必要です
。
生命が生きるということは、他の生命を犠牲にするということだからです。それは肉食動物でも、草食動物でも変わりません。
「価値あるツバメを救うために、より価値の低いミルワームを犠牲にするのは当然だ」などとは言えません。それは
人間の主観による命への価値づけ
です。
命の価値に人が差を付けることはできません
。“命の価値の差”の理屈は「ひとつの命を救うために他の命を犠牲にすること」を正当化できません。
しかし、かといって命が等価値だと主張すると、それもまたおかしな話になってしまいます。たくさんの草食動物とそれを食べる肉食動物を見た場合、「世界に価値の高い命がたくさん存在するのがすばらしいことだ」などと考えると、
肉食動物は多数の等価値の命を奪うから悪い奴だということになってしまいます
。
「肉食動物は草食動物よりも高い価値があるから捕食をして当然」なのでもありません。「肉食動物は業が深い動物」なのでもありません。
肉食動物は
そういう形と仕組みを持って生まれてきているのであり、そうすることが彼らにとっての「生きる」ということである
だけです。
人間は
人間の価値観と全く別個に生きている動物を見て、自分達の価値観で判断しようとしている
だけです。
結局、「命には価値の差がある」とも、「命は等価値で全て尊い」とも言えません。
命に人間の概念である“価値”をあてはめ、それを根拠にして大切にするという考え方に無理がある
のです。
「価値があるから大切にしないといけない」と言うのではなく、
命に価値づけをすることなく大切にできる考え方
をしていかなければならないのです。
3.生態系への介入
自然と人間社会の理想的な関係は、
線引きをしっかりしておいてなるべく自然をそのままにしておく
ということです。
“本当であればそこで死ぬべきであった”純粋な野生動物を救って自然に返すということは、結局
人間が生態系に関与してしまう
ということです。
自然と人間社会の違いを分かっている人は「野生動物には極力関与すべきでない」ということを理解できると思いますが、あまり意識していない人にはピンとこないかも知れません。
傷ついたライオンを助けたとします。治療して治って「元気になって良かったね」ではありません。治ったライオンは、これから生きていくために草食獣の命を奪います。
それは善でも悪でもなく、生きるために行う種としての当たり前のことです。
それよりも問題なのは、
人間の善意による介入が結果として自然の枠組みに影響を及ぼす
ということです。このことは、肉食獣を助ける場合にも、草食獣を助けるときも程度の差はあれ、根っこは同じです。
ただ、
人間社会と独立している自然に人間が介入していくのは避けた方が良い
ですが、
人間社会と自然が完全に無関係ということはあまりありません
。
もともと野生動物が通い道としていたところに人間が道路を造ってしまったり、野生動物が暮らしていた生活圏に人間が侵入していったりして、その結果人間の手により傷ついてしまった動物がたくさんいます。
人間に保護される動物は交通事故や窓ガラスへの衝突など、
人間社会によって傷つけられた動物の方が圧倒的に多い
と言えると思います。
そういう動物に対しては人間は積極的に治療をして、もとの生活圏に戻っていけるように尽力すべきだと思います。
それは動物たちへの
せめてもの罪滅ぼし
であり、
自分達の人間性や感情を大切にする
ことです。
そして、それと同時に
なるべく彼らの生活圏を侵さないように気をつけ
、
自然は人間が好き勝手に暮らすためにあるわけではないということを理解
しておかなければなりません。
4.人間の地球管理責任
自然保護を訴える人たちの中でも特に欧米系の人たちは「人間には地球を管理する責任がある」と言います。しかし、その考え方は「神から与えられた特別な地位」の思想に基づくものであり、おそらく幻想です。
自分達が慈悲深さを持ち、かつ特別であるとする考えは
人間の自尊心を満たしてくれます
が、基礎には
人間を世界の中心に据えて考える
思想があり傲慢さが見え隠れします。
人間が
地球上に数多く存在する生命の中のひとつにすぎないのであれば、決して特別な存在であると言うことはできません
。
“管理責任”は“地球を好きにする権利”への反省から生まれてきた
概念です。
かつての人たちは「人間には地球を好きにする権利がある」と信じ、地球上でやりたい放題をし、その結果多くの自然を破壊しました。
その反省をしながらも、人間が世界の中での特別な存在であるという前提は捨てようとせず、「特別なままいかに自然を保護する理屈を創るか」と考えて創られた概念であると思います。
まず人間が捨て去るべきなのは、人間が特別であるという意識
です。“管理責任”は人間が特別であるという前提以外では成り立たない考え方です。
自分達が特別でなくても自然や野生動物を保護できる考え方
でなくてはなりません。
5.種の存続と生態系への影響
「現在の種をそのまま残すことに意味がある」という人もいますが、
現在の種をそのままの形で残すことは不可能
です。地球と生命の歴史は変化の歴史です。
種の数と形は時代と共に移り変わっていく
ものです。
人間が手を下そうと下すまいと、時がたてば生命の形は少しずつ変わっていきます。
変化していくことがどういう意味を持つのかは人間に判断できることではありません
。
人間の影響した後の生物相と影響しなかった生物相は異なっていると思います。しかし、
その違いが地球にとってどういう意味があるのかを人間が判断することもできません
。
地球の環境が時間と共に変化していく以上、種の絶滅がおこることは避けられません。
今まで地球上に現れた種の運命は、
変化しながら新しい種の土台となるか、それとも絶滅するか
しかありません。
適応できないだけの生活環境の変化があれば絶滅をすることは避けられません
。
そして、ひとつの種が絶滅したとしても、
生物にとっての生活空間=
ニッチ
が空けば時間がかかるにしろ既存の種の中からそのニッチに適応するものが出現し、新たな生態系がつくられていきます
。
生態系はある生物が増えればその影響によって違う生物が増え、そうしてバランスの取れた状態に遷移していく・・という流れで
結果として成り立っている
ものです。
バランスが取れているのが善、バランスが崩れているのが悪という考えは人間の価値観を絶対視したものです。絶滅=悪ではありません。大変動の時代を“悪の時代”と呼ぶのはナンセンスです。
結果としてそうなっているものを人間は
自分達の色メガネを通して観察している
のです。
しかし、
人間社会が関与してしまったために種が滅びたり個体が傷ついたりすることと、関与無くそうなることとはまた違います
。
人間が自分達の活動により生態系のバランスを崩すことは、自分達の安定した存続のためにも、そして良心にさいなまれないようにするためにも避けるべきです。
人間の関与により今後またどういう生態系への影響があるか分からないためその可能性を減らす
ためとは言えるでしょうが、数が減ってきた“人間の目にとまりやすい”動物を保護して野に放つことが、地球にとってどれほど意味のあることかはなんとも分かりません。
人間は
生態系のバランスを考える知性
を持っていますが、一方で自分達が
保護する種の選択に感情が入り込んでいる
ことは自覚しておかなければなりません。
もちろん、だからといって「消えゆく種は絶滅から放置しても良い」といっているのではありません。
ただ、それは「自然のため」か「自分達の良心のため」かと考えると、
自分達の良心のため
と言う方が矛盾がないと思います。
「自然のためを思う」ことはできますが、「自然のためにしている」とは言えません。
人間に絶対的な意味を判断することはできない
からです。
6.自然保護と野生動物保護
自然を守ることは生活環境を安定させ、人類社会の安定のためであると言えますが、
野生動物を保護すること自体は人類社会の安定とは直接関係あるとは言えません
。
「野生動物が生きていけないような環境は人類にとっても良くないから、野生動物も生きていけるような生活環境を保とう」とは言えても、人間以外の種が生存しているか、絶滅しているかということは、
人間社会の存続とは直接関係ありません
。
生活環境保護のための野生動物保護とは言えません。
保護への批判をするつもりはありませんが、語るときに
違う次元の話を持ってくるのは欺瞞を生み出すもと
になります。野生動物保護は自然保護と関連してはいますが、自然保護とは違う考え方が必要であると思います。
野生動物保護に対して自然保護と同じ切り口で語ることはできません
。
野生動物を「守らないといけない」と語ることは保護を
義務
として捉えるということです
。
義務とするには根拠が必要
となります。
今はその根拠を語るのに“絶対的な真理”を用いようとしています。しかし
、
“絶対的な真理”は人間の主観を客観と言い替えることによってつくられるものです
。
義務として語ろうとすると、どうしても根拠が必要となり、根拠を創る過程で誤謬と欺瞞が生まれます。
誤謬や欺瞞を生み出さないためには、「守らないといけない」のか、それとも「守りたいと思っている」のかをもう一度考え直さないといけないと思います。
自然保護・野生動物保護が叫ばれるまでは「何をしても構わない」という意識がありました。「守らないといけない」と思ったのは、
人間の経済発展のために犠牲にされる動物を見て、「これではいけない」と感じた
からです。
そして「守ろう」と思い、保護を受け入れさせるための理論を構築していきました。その結果として考え出されたのが今まで述べたことです。
「守ろう」と思ったのは、
「守りたい」という願望を人間が持ったから
です。
そうであるなら、いろいろと理屈を持ち出してきて根拠とするよりも、自分達の
願望を源泉
として保護をしていった方が良いと思います。
総論
:
総論に入っていきますが、少し哲学的な話にも踏み込んで話をします。前提からまとめて理解してもらわないと必ず誤解され、真意を読み取ってはもらえないと思うからです。
野生動物を“守らないといけない”ことの根拠とされているものは今のところ、
フィクションの上に乗っかったもの
でしかありません。
理由を突き詰めると、それぞれは確たるものではありません。
今の“自然保護”“野生動物保護”の流れは、
今まで自分達が好き勝手やってきた事への反省から生まれた、いわばアンチテーゼとしてのもの
です。
一昔前なら、「
人間がどうしようが人間の勝手だ
」というのが全体的な雰囲気でした。しかし、今はその考え方はおかしいと思われるようになってきています。
人間の持つ倫理感・価値観は変化してきています
。
以前は人間が世界の中心であり、人間以外の存在は人間によっての“有用性”によってその“価値”を判断されていました
。
今は、人間が他の存在に自分勝手な価値づけをすることの反省がされはじめていますが、それは価値判断の基準を“
人間にとっての有用性
”から“
絶対的な価値
”にすげ替えようとしているとも言えます。
人間は「主観的」という言葉に対して「客観的」が対比となると思っていますが、
人間が考えているものである以上、“客観的”に考えたとしても、それが“絶対的真理”であることはあり得ません
。あくまでも、
多くの人が正しいと感じることができる“主観”
にすぎません。
新しい基準をもとに考えようとしても、
人間の考えることを“根拠”にしようとする以上、根っこは同じ
です。
「全ての命は高い価値を持つ」という言葉も、意図していないにしろ
人間の知性を過信しており、傲慢さを内に秘めている
考え方です。
世界や自分たちの存在に対して、そろそろ人間は考え方をあらためるべきではないかと思います。
「
人間は特別な存在ではなく、全ての存在の中の一部にすぎない
」という前提にあらためないと、傲慢さや欺瞞を含まない考え方はできません
。
自分達が特別な存在であるという考えを破棄することは「
すばらしい世界の中で、高い価値を持つ人間が、自分達に特別に与えられた“生きる権利”を行使する
」という世界観から「
不確実な世界の中で、不完全な人間が、それでも精一杯生きていく
」という世界観へと転換するということです。
自分達の生を、唯一正しい“絶対的真理”と結びつけて考えるのではなく、
等身大の自分の「
生き様
」の問題
として捉えるということです。
自分たちの存在にどういう意味があるのか、その行動にどういう意味があるのかは人間には分かりません。
人間には「人としてどういう生き方を選択していくのか」ということを決めることができるだけ
です。
どう考え、どう行動するのかは、自分の手で模索していかなければならないことです。
自分達を特別でないと認めることは自尊心を傷つけ、よって立つべきものを失わせます。
しかし、フィクションの上に欺瞞を築き、中身のない空論の上に自尊心を埋めるよりは、よほど人間らしいと思います。
苦しみ、悩み、考えることこそが「人として生きる」ということ
だと思います。
「自分達は特別ではない」という前提のもとで、初めて欺瞞も偽善もない考え方ができると思います。
欺瞞を生み出さない考え方の最低条件は、
1.
主観は主観のままでおいておく
2.
絶対的な真理には触れない
3.
命への価値づけを必要とさせない
というあたりだと思います。
救うのは、
自分達が「救いたい」と願うから
です。救いたいと思う気持ちは主観としてのものであり、そこには矛盾も欺瞞もありません。
主観を客観と言い換え“絶対的真理”と主張すると、どうしても誤謬や欺瞞を生み出してしまいます。
「価値があるから救わなければならない」と述べるのは
“価値が高い”と感じている人間の主観を絶対的な真理と見なしている
ということです。
主観は主観としておいておいたまま「
自分達の願望を源泉として大切にする
」と言わないと、矛盾無く行動できません。
願望を行動の源泉として考えるということは、“絶対的真理”には触れず、
自分達の生き様の問題
として考えるということです。
願望は
人間の感情
をもとにして生まれるものです。時にいびつになったり、暴走して“
狂気
”としか呼びようのないものになったりします。
「保護すべき種と考えるかどうか」は、実際にはしばしば人間の思い入れの程度によって決められます
。
理性
は根拠を創るためではなく、
世界と自分達の姿をより正しく観察し、より良い未来の形成に向けて人間の感情をコントロールする
ために用いられなくてはいけません。
野生動物を救うのは、「救いたい」と願う気持ちを持つからです。
願う気持ちは
やさしさや思いやり
といった自分達の「
人間性
」からくるものです。
野生動物保護はそういう
自分達の持つ人間性を大切にする
ための行為です。
人間は、自分達の利益を追い求める一方で、
苦しむ動物たちを見るといたたまれない気持ち
を覚えます。自分達の社会の影響によって傷ついているのを見るとなおさら罪悪感を感じます。
野生動物保護は自分達の
良心にさいなまれないようにする
ためでもあります。
絶対的真理と結びつけて野生動物保護を理屈づけることは困難です。
「動物のためを思ってする」とは言えても、「動物のためになっている」とは言えません。
「動物のためにしているのだ」と言うことは、「地球に優しい」という言葉と同様、欺瞞を含んだ言葉になってしまうのではないかと思います。
自分達の行動に対する評価は自分達にはできません
。
“正しいこと”は人間にはできません。人間にできるのは
「正しいと思うこと」を行う
ことであり、そのために
「何が正しいか」を自分の頭で考える
ことです。
語り得ないものを語ろうとするのは自らの知性に対する過信
です。
自分達にとって語ることのできる範囲でしか語ってはいけません
。
それを考えると、欺瞞も偽善もない言い方としては、
「救いたいから救う」
としか述べられないの
ではないかと思います。
社会と自然とのかねあいで言えば、人間社会が自然を傷つけた事への“罪滅ぼし”をしようとしているとも言えると思います。
しかし、それも
人間の考える概念
でしかありません。
何が正しいかは分かりませんが、
「正しいと思えること」を考えていかなければなりません
。
「考えること」は今を生きる僕達がこども達に良い社会を残すために、成さねばならない責務
です。
今の人間の倫理観・価値観の形成には「
ヒューマニズム
」が大きく関わっています。野生動物を保護するのにも、ヒューマニズムが形を変えたものが関わっています。ヒューマニズムは便利ですが、問題を多く含んでいる考え方です。
自分達を世界の中心と考えるヒューマニズムの思想から、人類は次の段階の倫理観・価値観へとうつらないといけないと思います(「
ヒューマニズムから人間性尊重主義へ
」)。
お読みになった方のご意見をお聞かせ願えればうれしいです。ただし、その前に、自分の考えていることが、フィクションの上に組み立てられているものでないかどうか、それを一度考えてみてください。
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