人が地球を救う、?
環境汚染が取りざたされるようになって久しいですが、気になる言葉がひとつあります。それは「人間だけが地球を救うことができる」というものです。
この言葉を深く掘り下げて、そこに隠れているものを考察していきたいと思います。
環境汚染が問題になってきたのは、
人間の文明と技術が進んだ
からといえます。
それまでは人間が使う資源量が知れたものだったので、地球のフィードバック機構によって
地球がバランスを取れる範囲で収まっていました
。
人が多量の木々を切り開き、化石燃料を燃やして二酸化炭素を増やし、地球が環境バランスを取れないまでに影響を及ぼすようになると、人間の生活環境の土台が揺るがされるようになってきました。
地球気温が上がり国土が水没したり、ダイオキシンなどの有害物質を環境中に排出したり・・と新聞やニュースで関連した記事を目にしない日はないくらいです。
地球環境が悪化するという言葉を考えると厳密には語弊を含んでいます。正しくは「
人間にとっての生活環境が悪化する
」
です。
人が地球を救うという言い方にも疑問を感じます。これだけ環境を変動させて自らの首を絞めることになったのは
人間自身の活動
によるものです。
自分で環境を悪化させておいて、自分たちが地球を救う存在だというのは本末転倒に聞こえます。
「地球を救う事ができることができるのは人間だけだ」という言葉は
自ら墓穴を掘った人間が、行動を修正するに当たってまで自尊心を満たそうとしながらでないと行動できない
と言うことであり、見苦しい面を持っていると思います。
必要とされるのは現状に対するきちんとした認識と、みんなが一致協力できる目標です。
生活環境を守る一番の目的は自分達のためです。
欧米では聖書に由来する「人間には地球を管理する責任がある」という考え方を持っていますが、人間が必然と偶然の結果として生まれた生命の中のひとつだという考えのもとではしっくり来ない部分があります。
「地球を管理する責任」という言葉の中には
人間が地球を好きにする権利を持っているというニュアンス
をも感じます。
人間が地球を好きにする権利はないと思います。地球は長い歴史を経て今の形になっており、人間はその中で奇跡とも言える確率の元誕生し今に至るのです。
謙虚に自分たちを見つめ直すならば、自分たちが生命の中のひとつの種であるとの認識を受け止めて、自身に対する特別意識を無くしていくべきです。
他の種に対する責任感は、人の価値観のひとつであり概念なのです。人間は優れており、従って地球を管理し大切にしていかないといけないと言う考えから来るものです。
特別な存在によって特別な存在となされた人間という
神中心主義
から、人間はそれだけで価値があるという考えになっているのが
近代ヒューマニズム
です。
僕はヒューマニズムの次に来る段階は他者を自分のように大切に感じ尊重する「
慈愛
」の精神だと思います。存在を存在として慈しみ愛する条件は相手に価値があるかどうかではありません。
自分が大切にしたいと感じるから大切にする
のです。
価値があると思うから大切にすると言うことの裏返しは、自分たちが価値がないと感じるものは大切にしないと言うことです。
人間が物事に価値づけをしていくことは誤りだと思います。
地球を思う気持ち、他の種を思う気持ちは「慈愛」の精神から来るものです。
思いやることのできる存在だと自分を褒め称えることで自尊心を満たす行為
には少なからず
エゴの心
が入り込んでいると思います。
もうひとつの論点である、地球環境を乱すことが絶対悪かどうかは「
人間は地球にとって財産か害悪か
」で触れた通りですが、地球環境を変動させることは人間の生存を脅かすがために人間にとっては害なのです。
もちろん今地球上に暮らす他の種にとっても迷惑なことは確かです。
ただ、それが地球の歴史においてはどういう意味を持つのか、次の新しい環境を生み出すための要因なのかどうかは誰にも分かりません。
善悪といった価値基準は人間の概念であり、人間がいなくなれば善も悪もありません。
そして、人を超えたものに善悪の概念を当てはめることはできません。
地球を救いましょうと言う言葉は正しく言い直せば
「
人間が生活環境をこれ以上破壊すると、人類が安定して生存することが困難となり、しいては子供達・孫達の代に良い生活環境を残すことができなくなります。良い環境を子孫に残すために、生活環境を悪化させることは止めましょう
。」
です。
自分達の罪悪感を紛らわすために論点をずらして提示する方法はあまり好きにはなれません。
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